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幼少期

~両親からの自由な教育~

2001年 東京都世田谷区の病院で生まれました。

なんでも気になったものや生き物がいたら、「これは何?」と母に聞いていたり、いろんなことに興味津々で好奇心旺盛な子供でした。通園中でも母は一緒に立ち止まって、一緒に考えてくれたり、答えを探してくれたりしていました。また、水があると飛び込んでしまうような子供で、海や川や公園の噴水などどこでも飛び込んでいたそうです。また、遊び足りないと、親戚の家でもどこでも泣き叫んで帰らなかったそうです。

母は絵がとても上手で、リビングのかべに大きな模造紙を貼って、そこにアンパンマンのキャラクターを私が言ったものを描いてくれるということもしてくれたり、私が頭からヨーグルトをかぶっても怒らなかったり、とても自由な教育をさせてもらいました!

 

3歳で幼稚園に入園します。

幼稚園の友達と水泳を習い、水泳が好きになります。特に得意なのは背泳です。

5歳で周りの女の子が習っているからという理由で、ピアノを習い始めます。

途中でピアノは楽しくないと言い出しましたが、先生の方針で、「それでも音楽をして欲しい」と言ってくださり、歌のレッスンをしてくださいます。そこから、声楽やポップスや弾き語りもして、ピアノにも触れさせてくださって、たくさんいろんな曲を発表会で演奏しました。また、音楽は聞くのも好きで、音楽業界で仕事をしていた親戚の影響もあってたくさんのコンサートに足を運びました。Jpopの曲から海外アーティストまで様々なジャンルの音楽が好きになります。

 

そして、小学生は女子スポーツクラブに所属して、バトントワリングや長距離走やドッジボールなど、普段からスポーツをするような生活をしていました。また、青山学院初等部で、体験させてもらった行事がたくさんあって、いろんなことをしました。客船を一隻借りて、日本半周旅行に行く船旅では屋久島に行ったり、長崎の平戸で初めての2kmの遠泳もしました!

中学高校では、6年間バドミントン部に所属して、部長をやったり、怪我に悩まされた時期もありましたが、組織というものはなんなのかということを実感して、学びました!

 

私の節目~カメラを買う~

周りの子が持っているからという理由で、中学1年生(13歳)の時に自分のお小遣いでミラーレス一眼カメラを買いました。そこで、撮った写真をinstagramにあげることで知らない同級生からもメッセージが来たり褒められることが多くなり、自分の“得意技”や“自信”となっていきました。

大学3年生になった今では、大学サークルの撮影から、学生フリーペーパーに載る芸能人の撮影を行ったりしております。

 

私の節目~写真家の方と出会って~

大学生になって、写真部に所属して、写真をより一層磨きました。大学二年生が始まる頃にコロナウイルスで日常が変わってしまいました。2年生の1年間は空白の1年間だというふうに思っていて、本当に良いことがあまりなかったです。しかし、唯一の面白い出会いと言っても過言ではないくらい、大学2年生の夏に、小平尚典さんという写真家の方に出会いました。なんでというくらい沢山自分の将来のことを一緒に考えてくださったりとか、展示の設営の手伝いに呼んでくださったりしました。なんでも話せて、相談もできる大人の方のお1人で本当に感謝でいっぱいです。

 

私の節目~初めてのインカレ所属~

大学3年生の前期では“対面授業が始まる”という学校からお知らせがあったが、どうせできないであろうと8割型諦めていました。そのため、SDGSの環境問題に興味があったのもあり、「十大学合同セミナー」というインカレに所属を決めました。ここでは沢山勉強もしましたし、25,000文字の論文を30人ほどの仲間と書き切り、思い出も仲間もできて良い経験でした。

また今でも、常日頃から“環境問題”をはじめとした様々な社会問題に興味がある子たちばかりなので、voice upなどの発信をしている姿を見て、興味関心に引き立てられています!

 

私の節目~初めての外部展示~

大学3年の7月から外部のグループ展示に参加をしないかと呼ばれることが多くなり、その経験から大学3年の11月に青山にてグループ展示の代表を務めました。1ヶ月という長い期間お借りして展示ができたことはとても光栄であり、たくさんの感謝の言葉や応援のメッセージをいただきました。自分の自信にも、思い出にもなった最高の1ヶ月間でした。

 

私の節目~経営スクールに通い始める~

経営の知識はもちろん実際にアポをしたり、数字での結果を求められる世界で学生ではできない体験ができています。途中のクラスで、歴代最速卒業記録を出したり、数字としてとても自信になりました。そこでの友達や大人の方とも沢山出会えています!!

歴代最速記録を出したことで、そのスクールの取締役の方と、お食事に行く機会をいただきました。そこで沢山いろんなことをお話ししただけでなく、コンサルをされていることもあり自分はどんな風に今後キャリアを築いていって行った方が良いのかなど考えるすごい良い時間になりました。

 

私の節目~写真家の方と出会って~

大学3年の12月にヨーロッパでカメラマンをされている日本人の女性に出会いました。その方はもう還暦を過ぎている方でしたが、お年も気にすることがないくらい、ポジティブでありのままで良いという風におっしゃってくれてくださり、話始めて開始10分くらいで「海外を見た方が良いよ」という風にアドバイスをいただきました。

今はカメラマンの仕事以外にも友人からの紹介で、パリコレに出るような、名だたる有名ハイブランドのモデルもされています。

この方とお話をさせていただいた、たった1時間でしたが、最後には涙が自然と出てくるくらい、私の人生の中でも、すごいインスピレーションを与えてもらったポジティブな時間になりました!

 

これからどう生きていくか(現在20歳)

私の将来の夢は、自分の名前で呼ばれる写真家になりたいという軸が中心にあります。また、自分のセレクトしたものをお店で売ったり、いろんな人が“サードプレイス”として居られる場所を作りたいと思っております。でもこれは自分の“やりたいこと”であって、その前に社会貢献できるような何かをしたいと思っております。また、海外にも2022年は行きたいと思っています。

あとは自分で自分のことを養えるのはもちろんのこと、親孝行も早くできるくらい働ける大人になっていきたいです。

若宮正子さん

生い立ち

1935年4月に生まれ、物心つく前から戦争一色の中で育ちました。小学校に入学する前から日本は開戦していて、爆撃なども経験しながら少女時代を過ごし、9歳のときに最後の学童疎開児童として親元を離されて山奥に行きました。充分な食事ができず飢餓を体験するなど大変な思いをしましたが、終戦後は比較的普通に過ごすことができ、高校卒業後は銀行に就職しました。

よく「若宮さんはなぜ大学に行かなかったんですか?」と尋ねられるのですが、当時の日本は女性が大学に進学するということはあまり一般的ではなかったんですね。高校に行くか行かないかを悩むといった雰囲気で、大学に行くといったことを考える人はあまりいなかったと思います。

職業生活について

高校卒業後の18歳から定年まで銀行に勤めました。当時のオフィスワークは、紙幣を指で数えたり、そろばんで計算したり、お客さんの通帳の表紙に手書きで文字を記入したりといった、江戸時代と変わらないような仕事でした。仕事が遅かったため先輩達からは「まだ終わらないの?」とよく叱られていましたが、機械化やコンピューター化が進むにつれて次第に叱られなくなりました。どんなに作業が早い人でも機械より早いということはないですから。

よく「若宮さんはなぜそんなにコンピューターにご執心なの?」と尋ねられるのですが、機械やコンピューターは私にとって恩人のようなものなのです。

世界最高齢のアプリ開発者へ

81歳のときに「hinadan」、85歳のときに「nanakusa」というアプリを開発しました。

「hinadan」の開発によって世界最高齢のアプリ開発者として、にわかに有名人になりました。もともとプログラマーではありませんでしたので、たくさんの方々にわからないことを質問して、聞いて聞いて聞きまくって大騒ぎして開発することができました。

若い人達はアプリ開発というと即プログラミングという風に考えてしまいがちです。「コーディングができないからアプリは作れない」という声をよく聞きます。

しかし、プログラミング自体はプロに依頼することもできますし、最近は様々なプログラミングツールが登場したことでノーコードでもアプリ開発できるようになるなど、プログラミングそのものはどんどん簡単になってきています。

現在の子ども世代が大人になる頃にはアプリ開発するのにコーディングなどは必要ない時代になっているかもしれません。

面白いアプリを作るにあたってはプログラミングよりもむしろ、“何のために” “どういう目的で” “どういうアプリを作りたいのか”という部分の方がはるかに大事です。

例えば映画を作りたいと思ったからといって撮影ばかりして映像をいくら増やしても映画にはなりません。何のためにどういう映画をつくるのかという部分こそが大切であり、それに即したシナリオがあって初めて映画を作ることができると思うのですが、それとまったく同じことです。

小学校でプログラミングを教えてほしいと求められることもあるのですが、それをやるとプログラミングだけを教えることになってしまうのであまり好きではないのです。

もちろんプログラミングを全く知らないとアプリを作ることはできないのですが、それだけに終始するのではなく美術も音楽も国語もあらゆることが大切ですし、様々な体験をすることが大事です。 何かを作りたいと思うこと、作りたいもののアイデアを思いつくことは、人工知能にはできない、人間にしかできないことです。それこそが最も大切なものなのです。

最高齢アプリ開発者として突然 有名人に

81歳のときにアプリ「hinadan」を開発したことで、世界最高齢アプリ開発者として突然に有名人になりました。そのため普通の人がめったに行けないようなところに行ったり、めったにお会いできないような方にお会いできることもあるので、そういった自分が得たものを多くの方々に伝えるために、国内外での講演会、執筆、ライブ、その他もろもろの様々な手段で情報発信をしています。

2019年は国内外で184回の講演会を行いました。2日に1度という壮絶なペースで講演会をしていたことになりますね。新型コロナ・ウィルスが感染拡大した2020年は主にzoomでの講演会を行っていました。

2018年にはニューヨークの国連本部に招かれて演説したこともありますし、2021年には国連人口基金においてオンラインで演説しました。

また私が執筆した「老いてこそデジタルを」という書籍は2回増刷になるなど売り上げが伸びているようで、その他にも多数の書籍を出版しているので、お金が入ってくるようになりました。出版で稼いだお金は、お金がなくて難儀しているNPO法人に寄付して活動資金として使ってもらっています。

エクセルアート(創作活動)

エクセルは「コンピューターとは何か」を理解するために重要なソフトなのですが、シニアにエクセルを教えようとすると敬遠されがちです。そこで「楽しい入門編」として手芸の好きなシニア女性向けに『エクセルアート』を創案しました。

『エクセルアート』とは、エクセルの「セルの塗りつぶし機能」や「罫線の色付け機能」を使って自分だけの模様を作る創作活動です。エクセルアートで作った模様を布地に印刷して裁縫が得意な友人に衣装を作ってもらったりしているほか、作成した模様で団扇を作るワークショップも国内外で行っています。

『徹子の部屋』(テレビ朝日系列のトーク番組)に出演したときは、ちょうどクリスマスの時期でしたのでクリスマスツリーのデザインのブラウスを作って着ていきました。

園遊会に招かれたときは、自作のエクセルアートを基にアイロンビーズとLEDライトを組み合わせて作ったピカピカ光るハンドバックを持っていったところ、当時の皇后陛下(現・上皇后陛下)がご興味をお持ちくださって、このバックを話題にしてお話をすることができました。

VRについて

VRはリハビリなどを始めとしてさまざまな用途に使われ始めていますし、これからの時代は交流の手段にもなっていくと思います。とても興味を持っているので、これから教えてもらって始めていくつもりです。興味があったらさっさとやっちゃう、面白いものを楽しむということが好きです。

「年寄りだってやればできる!」

インターネット上に展開する高齢者の交流サイト「メロウ俱楽部」で副会長を務めています。メロウ俱楽部は「年寄りだってやればできる!」をモットーとしていて、小学生から90代まで幅広い年齢構成で楽しくやっています。活動をしていて気づいたことは、70代の終わり頃までにデジタルアレルギーをなくした人は、90歳を超えてもデジタルを使いこなすことができるのだなということです。

インターネットを社会のインフラに 誰一人取り残さないデジタル改革を

日本のシニアの方々にデジタルを使いこなしてもらうためには、デジタルが役に立つ素晴らしいものだということを知ってもらうのが大切だと思います。テレビや新聞などの報道では、ネット・トラブルやインターネット上の事件などネガティブな面が取り上げられることが多い一方で、ポジティブな面が取り上げられることは少ない傾向にあります。そういった理由もあってか、デジタルを使用することについて「手抜きをするために機械で間に合わせるのだろう」という印象を持つ人もいます。

しかしデジタルを活用すると、人手をかけていた時よりもはるかに迅速に、よりきめ細やかに寄り添うことが可能になります。デジタルは決して冷たいものではないのです。むしろ人のささやかな善意を生かして役立てるようなことにも手を貸してしてくれる優しい存在なのです。 日本のシニアの方々に伝えたいことは、70代80代は育ち盛りの伸び盛りということです。決してあきらめないで、潜在能力を無駄にせず生かせるように過ごしてほしいなと思います。

川口喜久

生い立ち

東京(武蔵境市)生まれ、浜松、京都、福岡と小学校を3回転校し、大学入学まで福岡(福岡市)で過ごす。幼少期は、ひょうきんで担任先生のものまねなどをして同級生を笑わせることに喜びを感じていました。またポール牧師匠の指パッチンのジェスチャーでおどけてみたり、自虐的なギャグで笑わせることも好きでした。

高校ではサッカー(2年目で挫折)、大学でははとバスの添乗員、AD、露天商(焼そば・たこ焼き・弁当)、エキストラ、ウェイター、コック見習い(洋食)、塾講師(中学生向け)、家庭教師、パン工場、お菓子工場、印刷工場、引越し、野球場警備員、銀行夜勤警備員など様々なアルバイトに没頭しました。

貯めたお金でインドネシアやタイに旅行して、特にインドネシアのバンドンという都市に魅力を感じて

当時は停電や交通渋滞も多く、将来はそのようなインドネシアの社会課題を解決するような仕事に就きたいと考えるようになりました。

また携わってきたいろいろなアルバイトに同級生の友人を紹介したりして、みんなから感謝されることにも喜びや遣り甲斐を感じていました。今思えば、20代のベンチャーキャピタル勤務時には採用意欲の高い投資先に成長が伸び悩んでいる投資先企業に勤務している中堅社員の方々をボランティアでご紹介し、2001年からメディカル専門のヘッドハンティングの会社に勤務するようになったのも、この学生時代に原点があったのかと改めて実感しました。

結局、学業はほどほどに、バイトをしてはアジアに旅行をすることに没頭していたので2年間留年しました。大学を2浪で入学した為に、2浪2留の24歳で新卒の就職活動することになり、自業自得ですがかなり苦戦しました。

社会人期以降

就職活動での紆余曲折を経て、国内資本の独立系ベンチャーキャピタルに入社しました。

初任地は名古屋支店でした。当時出張ベースで訪れていた北陸に支店を開設することになり、開設準備担当者として北陸3県の成長企業の開拓に励みました。

並行して新規投資先企業への営業支援、販路開拓支援、人材紹介、経営者向け各種勉強会の開催等の支援業務にも取り組みました。

1998年10月に学生時代よりご縁のあった経営者の方が創業したビジネスパーソン向け交流支援事業のベンチャー企業に(出版、コンサルティング、各種コンテンツ制作)して事業開発部長として転職しました。まず同社のベンチャーキャピタル部門の立ち上げに携わり、有限責任投資事業組合の組成、未公開企業へのIPOに向けた各種コンサルティングに従事しました。

それまで約6年間ベンチャーキャピタルと事業開発の仕事を通じて30代以降は「ヒト、モノ、カネ」の中で「人」にフォーカスしたキャリアを身に付けたいと考えるようになました。

2001年、33才の時にメディカル専門のヘッドハンティング会社に4年半勤務し、オーナーより職業紹介の基本や取り組む姿勢を徹底的に学びました。また初めて部下を持ち、チームをマネジメントする仕事を経験することができました。

その後、2005年に父が独立系M&Aのアドバイザリー会社の職業紹介事業部門の責任者として勤務していたので、同社にシニアコンサルタントして転職しました。

2007年6月に同部門を事業譲渡という形でM&Aアドバイザリー会社より受け継ぎ、新たに厚生労働大臣の有料職業紹介免許を取得し、株式会社キャリアフロンティア・リバーサーチという社名で再スタートして今年で13年目を迎えます。

設立から2011年10月まで私が代表取締役を務めておりました。3.11震災後の対応で体調を崩し、

長期療養の必要があった為、当時、福岡市に在住していた両親を呼び寄せ、代表権を父にバトンタッチしました。約半年後に現場に復帰しましたが、以後12年間は取締役として、求職者と求人企業をマッチングする業務と求人企業向け各種採用コンサルティング業務及び新規事業開発業務に絞って日々業務に勤しんでいます。

私の家族

東京都葛飾区で同居している82歳の父と83歳の母は、お蔭様で顕在です。

父は現在、82才です。長崎県出身で7歳の時に原爆で母を失いました。その後、地元の高校と大学を卒業後、準大手証券会社に入社し、主に営業、資本市場部門畑で活躍し理事を最後に退任し、2部上場のワックスメーカーの企画担当の役員を4年勤めました。

2001年6月にM&Aアドバイザリー会社のティーマック株式会社(旧社名 東京企業情報株式会社)職業紹介事業部門の子会社で弊社の前身となる株式会社ティーマック・リバーサーチを設立に参画し、社長として親会社と密に連携し、M&Aや企業再編に伴う即戦力人材の採用ニーズに取り組みました。2003年に親会社の業容拡大に伴う本社移転のタイミングで事業部に編入になりました。私は2005年に同事業部にシニアコンサルタントとして入社し、父とともに有料職業紹介の仕事に没頭しました。2007年9月に親会社より同事業部を事業譲渡いただく形で弊社の有料職業紹介事業が再スタートしました。

現在まで約20年間、父は現場の最前線で中途採用のマッチング業務と各種管理業務に勤しんでいます。パソコンもワードもメールも片手打ちですが器用に操作して仕事に活用しています。趣味は映画、ドラマ鑑賞で晩酌後夜9時には就寝し、朝4時に起床し録画していた映画やドラマを見ています。

長崎で被爆した当時の壮絶な戦争体験に関する話を私が訪ねようとすると頑なに拒んで来ましたが、ここ最近、時期が来たら話すようなことを言うようになりました。

母は昭和12年生まれの83才です。学生時代も陸上の選手でした。OL時代は外資コンピュータメーカーと国内大手化粧品メーカーの電算室でキーパンチャーをしていました。アフターファイブはダンスに興じていたようです。結婚後もいろいろなパートも経験し、40代までママさんバレーボールの活動していました。料理を作ることに一番の喜びを感じており、父も母の手料理が好きで仕事がどんなに遅くても帰宅後に母の手料理を食べていました。今も近所にショッピングカーを引いて買い物をして

身体に優しい料理づくりで父や私の健康管理をしてもらっています。

妹は3才年下です。音楽の教師だった祖母からピアノを習いピアノの練習を熱心に取り組んで小学校では校歌の斉唱の伴奏をしていました。幼少期から私が口達でしたので寡黙な妹を良く、言い負かせて泣かせては喜んでいた兄としては失格でした。大学卒業後に食品専門商社での事務職を経て、28才で大学生の頃に活動していたスキーサークルの先輩と結婚しました。結婚前に妹が「お兄ちゃんのような人とは絶対結婚しない」と言われたことを今も覚えています。旦那さんは実直温厚で寡黙なタイプです。

今、広島県で大学2年生の長女、高校2年生の長男がおり、経理事務のアルバイトをしています。
妹と旦那さんが父と母にプレゼントしたもらったタブレッドで妹の家族と月に何度か週末に父と母とともにコミュニケーションをしています。

パーソナルデータ

昭和 43 年 4 月 4 日生まれ 現在 52 歳 O 型 葛飾区青戸在住(令和 2 年12 月より)

趣味:旨いものをみんなで楽しく食べること・ダイエット・おせっかい活動・水泳(平泳ぎのみ・海水浴・水中歩行)・散歩・創作料理・カラオケ(ものまね風)・落語鑑賞・カメラ撮影・美術鑑賞

居住地:東京都武蔵境市→千葉県八千代市→福岡県北九州市→静岡県浜松市→京都府京都市→福岡県福岡市→千葉県船橋市→愛知県名古屋市→石川県金沢市→東京都(文京区湯島→新宿区南元町→新宿区信濃町→新宿区大京町→港区南麻布→港区広尾→足立区竹ノ塚→板橋区坂下→葛飾区青戸)

ニックネーム:きゅーさん、きゅーちゃん、ざんまいさん(すいざんまいの株式会社喜代村の木村清社長に良く似ていると言われます。)

好きな言葉:
・言ってみる、行ってみる、やってみる(高橋恵さん)
・自分の一生の親友は自分自身です(今村由美子さん)
・人生二度なし(行徳哲男さん)
・人間を「表、裏、縦、横、斜め」から観察せよ。(江島優さん)
・人間は自分の為に生きなければ生きられないが他人の為に生きる意志のない者は決して幸福になれない。(濤川栄太さん)
・健康はつくるもの(芳川弘さん)
・笑門来福
・士たるものの貴ぶところは、徳であって才ではなく、行動であって、学識ではない(吉田松陰)
・自ら光を放つ灯火たれ(森鴎外)
・Never Give up

社会活動:
・絆みらい塾(経済関連相互研修会)主催
・一般社団法人おせっかい協会(社会教育団体)運営メンバー http://osekkai.jp/
・一般社団法人池袋清掃の会 会員 http://ikebukurosouji.seesaa.net/
・一般社団法人ヘルスケアリーダーシップ研究会(略称 IHL)(8、9、10、12期生) http://ihl.jp/
・一般社団法人医介 池袋医介塾 会員 https://www.facebook.com/ikebukuroikaijyuku/
・社会起業大学(16期生) https://socialvalue.jp/
・四谷倫理法人会 会員 https://www.tokyo-rinri.net/yotsuya
・一般社団法人日本シニア起業支援機構 会員 https://www.j-score.or.jp/

私の子ども時代

小学生の前半は中国の上海に住んでました。学校にはバスを2回乗り継ぎして行き、毎日宿題に追われ、楽しみといえば、巷で売っているラム串肉のスパイス焼きを買い食いすること。小学校3年生の頃に言語も文化も知らない東京の公立学校に入り、勉強の量が減り、毎日友人と遊びに出かけながら日本語を覚えました。なんとかなる精神の子供だったのでしょう。

中学・高校の頃

普通の公立に通い、テニス部、帰宅部、アルバイトなど、人並に経験してました。

“自分は何もできない”と向上心のための戒めのつもりが、できないことに焦点を当てすぎて、自責して悩んでいるうちにエネルギーも時間も使い、成績にもダメージ。

私の転機 ~最初の転機~

自分の意志で転機となったのは、高校の時、お小遣いでアメリカの親戚を頼って2カ月渡米したこと。文化の枠組みを外した時に、可能性を見出せたことが心の健康を取り戻せた時でした。

それから~

日本のとある私立大学に行ったのだが、相変わらず“自分とは何か”を探ることにエネルギーを使いすぎて疲れ果て、大学は中退。アルバイトしていた展示会で司会やナレーションのスキルを上げていくうちに、日本語の発音に再着目し、日経ラジオで研鑽をしたのち、様々な展示会において日本語で司会をして生活を繋げるようになったことは自分の中のほんの小さな誇りです。

恩人

思い起こせば枚挙にいとまがないですが。

最大の恩人はやはり家族です(家族と恩人を同じカテゴリーに考えるのは悩みました)

“あなたはやろうとおもってやったらなんでもできる”と心の根底を支えてくれる母の言葉の力は無限です。

これから~

身体の自己治癒力を高めるための整体や気功、薬膳、環境、星の運行、哲学、心理学、建築構造、などに興味を持っています。バラバラに見えるそれらは、同じような仕組みの中で複雑に絡みあっています。そのように捉えるのが東洋思想。バラバラにみる時代から、ようやく統合してみる時代に入ってきたと感じており、1920頃からの現代科学(物理学・量子力学)の発展でさらにヒントを頂けそうです。

自分とは何か、仕組みとは何かという謎の追及、そして伝えるための道具磨きをしながらも、社会という現実の中で、関り合うすべての方が健やかに、心豊かに、楽しく過ごせることを、自分のことのごとく願っていきたいです。

最後に、ライフストーリーへのご縁をくださったこと、自分の表現の場を作り出してくださった方々、編集など携わるすべての方々にお礼を申し上げます。

宮崎敬子さん

「生い立ちと家族。そして…」

生い立ち

私は東京都に誕生しました。

誕生した時、私は出産予定日より2か月早く誕生しました。通常、その場合は粉ミルクで栄養分を補給するのですが、私の母は自分の乳を毎晩冷凍し、毎朝、病院に届けていたそうです。私はそんな母の愛情によってすくすくと育ちました。

上に兄が二人、そして下に妹が一人。4人兄妹の三番目、そして長女としてこの世をスタートさせました。私の家族は6人家族です。父は税理士として懸命に働き、母は子どもたちの習い事費用を稼ぐため、パートとして働いています。そんな子ども想いの両親が築き上げた家庭で育ち、自由に、やりたいことを挑戦できる環境があります。

節目と致しまして

私は今、岐路の真ん中に立っています。というのも現在は大学4年生、22歳です。今までの人生、「とにかくやってみる」、この精神で生きてきました。ただ、そこにはすべて決められた期間内のうちはやってみるという、ゴールが見えていました。例えば、小学校では書道、水泳をやってみる。中学、高校ではテニスをやりたい!大学では、色んな人と関われる文化祭の実行委員をやりたい!このような期限です。実際に大学の文化祭では新たなイベントを企画・運営し、副委員長も務めさせていたいだきました。毎日が大変だったけど、充実して楽しかったです。

座右の銘

私は今まで期間が決まっている学生だったので、そのうちにやりたいことは何か?そして、その中で最大限やり切る。そう決めていました。だからこそ、なんでもやってきました。

「百聞は一見に如かず」この言葉を胸にやってきました。自分が見聞きしたことを大切にしたい。それがいつか自分の大きな財産になると考えているからです。毎日楽しく、自分から積極的に楽しんでいました。

今の私

しかし、最近の私は、自分がいないようです。なぜだかわからないのが不安です。今の私はこれから社会に出ようとしています。

「私らしい生き方とは何だろう」常に自問自答の日々です。

私には、夢があります。

それは、世界から戦争を、争いを無くすことです。

私には、過ごしたい自分像があります。

それは、常に楽しく、笑顔で過ごすことです。

私には、なりたい自分がいます。

それは、自分が自分を大切にしていること。

世界はまだまだ知らないことが多い。私はこのまま社会人、サラリーマンになって良いのだろうか?毎日を「エキサイティング」「ワクワク」した気持ちで過ごすこと忘れずに生きることが大切に生きていきたいと。何があってもこの気持ちは忘れずに生きたいものです。

将来について

私は、子どもたちに自分の経験を話して、「なんでもできるんだ」ということを伝えたいです。私が実際に体験したこと。自分の目で見てきたことだから語れることがある。「百聞は一見に如かず」の精神ですね。私はまだまだ知らないことが多いです。今まで学生という守られた立場でしか世の中で過ごしたことが無かった。だから今の私は、これから社会に飛び込む私が不安なのも当たり前です。学生という立場で守られている私は「やってみよう」とすぐ決めたらすぐに後ろを考えずに行動していました。初めての登山もいきなり富士山に行くくらいです。行くと決めたら行く。やると決めたらやる。独学で三線を弾いてみたり、本当に些細なことですがやりたいと思ったことはやってきました。

正解がない。

だからおもしろい。

人生は常に分岐点。その上で、自分のこれからの物語にどんな道を作っていくのか。まだまだこれからの自分を作るために、自分ができることを一生懸命やる。今は多くの人と出会って、多くの価値観を知って、自分の糧にする。そして自分のできることを増やしていく。今の私にできることを全力でやること。それが私のやるべきことだと考えています。

今はまだ、このライフストーリーに掲載していただくほどの経験量が足りていないですが、若者の一声だと感じとっていただけましたら、幸いです。

この度、こういった機会を提供していただき、とても貴重な経験をありがとうございます。自分自身を振り返ると同時に、これからの未来。そして自分自身について見つめるとても良い時間になりました。並びに、拙い文章にも関わらず、最後まで目を通していただきました方、誠にありがとうございます。私の文章から何か貴方様にとって良いきっかけになりましたら、私も大変嬉しく思います。

そして、この出会いとご縁に大変感謝して、終わりのご挨拶とさせていただきます。


写真について:2019年8月スペイン トレド アルハンブラ宮殿にて
こちらの写真はコロナの脅威に侵される前に行くことのできた海外旅行です。とても良い景色ですよね。連れて行ってくれた祖父に感謝しております。

菊池裕子さん

生まれ

疎開先の新潟県で昭和23年7月に生まれた。瓜棚の下で撮影された家族7人の写真は、40歳代の両親、11歳、9歳上の姉たち、6歳と4歳違いの兄たちと生まれたばかりの私。家の前が海で8月頃の涼しそうな一枚だ。

昨年の秋、70年後の郷里を電車で通過。現在は線路際まで建物があるが、昭和の当時は車窓から日本海まで見渡せたと姉から聞いていたので何㎞か先の風景を想像してみた。

戦後生まれの私が一歳になったので、東京に戻るが、家は焼かれ、その土地はすでに他の人が住んでいた。所有者としての権利が消滅していたと知った。近所の方によると「立て札を立てて、連絡を待っていたのに…。数ヶ月遅かった」と聞きガクゼンとした。

新しい住居を見つけるまでの苦労話の中の一つは、母が残しておいた着物類を売った。何故残っていたのかというと、疎開先の田舎の人に着物とお米の物々交換を頼むのだが絹物は農家では価値はなく、木綿のみ。タオルはダメだが手ぬぐいならば野菜と交換してくれた。東京育ちの母にとって、価値観の違いに驚き、今で言うカルチャーショックだったそうだ。東京では復興も始まり、高級な絹の着物類は貴重品として売られ、お金の工面に少しは役に立ったそうだ。家探しには大変苦労があったことと思う。

新宿区に住む

新しい住まいは早稲田大学の近くだった。大隈講堂の時計台や遠くには椿山荘の三重塔が見える高台。父親の趣味で庭には四季折々の草花が咲き、大樹のいちじくが4~5本あった。新潟から連れてきた「ラッシー」という名の大きなイングリッシュ・セッター犬が放たれていて、私は怖かった思い出がある。

東京で父は新たに写真を仕事とした。陸軍に入隊し、中国で負傷していたことから、新潟でライカカメラを手に入れ準備していた。

仕事先へ行くために自転車を購入。交通費を稼ぐためどこまでも自転車を使った。雨降りで戻った時は大変だ。すぐ上の兄が借り出され磨かせられた。現代と違いすぐにサビてしまうため、高額で貴重な自動車は即刻きれいに拭かなければならない。

そんな大切にしている自転車だが、私は「三角乗り」が出来るようになっていた。小学4~5年生の頃のある日、友だちと遠くまで出掛けることになり、母から父の自転車を貸してもらえた。友人が子ども用の自転車を買ったので誘われたのだ。ピカピカの新しい自転車で爽快に走る友人がうらやましく一生懸命追いかけた。江戸川橋あたりまでは平坦だが、神田川からは急な登り坂だ。大人用が重くて大変な思いをして押した。あたりはだんだん夕闇が迫っている。引き返すことなど考えず、目的地に向かって登り切った。

帰宅した時はすでに暗くなってしまい、母にさんざん叱られた。しかも「夕食抜き」の罰となった。こんなことは初めてなので、兄はわざとおいしそうに食べて見せ悔しかった。「こんなに心配されるんだ」と反省。今、思えば私のことより父の足である自転車が心配だったのだ。こんな体罰は最初で最後であるから。

その父が60歳を間近になり体力を考えて写真スタジオを開きたいと考えた。

毎日、毎日店舗付き住宅を捜し歩き続け、ある日、帰宅すると母に「とうとう候補地は山手線の外側になってしまったよ」と残念そうに報告していた。幼心に理想通りにはいかないことを知った。

品川区に住む

中学一年生の夏休み中に急に引越すことを知らされた。小・中学校の友人とお別れも出来ないままでとても残念に思った。9月1日に新しい中学の制服もわからず教科書もないままにスタート。クラスの友人関係は一学期にだいたい出来るので、中々入り辛く困った。


この転校経験は私にとっては大きな転機だったのだが、戦時中の姉たちは繰り返しの疎開だったため小学校は5回も変わったとのことなので、何も言えなくなっている。
社会人となってそろそろ結婚をしなくては母を悲しませてしまう…。


それでは、結婚したら出来ないことをしておこうと考えた。何かな~?海外を見ることだと思った。昭和40年代は一ドル360円の頃で、今のように気軽に行くことは無理だったから。グアムのロタ島から始まり、北廻りや南廻りなどでヨーロッパ見聞へ。青春を謳歌して、とうとう、世の常であったお見合いをすることに。

結婚後の家族

結婚相手の条件は両親と同居することだった。結婚後わかったことがたくさんあった。義父は戦争の爆弾の研究で心臓を悪くし、障がい者認定で仕事はしていなかった。義母が洋裁技術で生活を支えてがんばって働いていた。二歳違いの弟がおり、夫はサラリーマンだった。

結納も済み何回か家を訪問した時に外観はわかったが「二階に住んでもらう」とだけ聞いていた。結婚式を間近に控えやっと案内してもらえたら、アパート型式の4室のうちの一部屋。6畳とキッチンのみと知り驚いた。結婚話を断ろうと思ったくらいビックリしたけれど、結婚したら更に驚いたことには、2年前に新築した家はローン支払いだった。義母に「一緒に返済して欲しい」と言われた。「同居の条件とはこのことだったのか?」。あまりにも無知だった自分自身にあきれ、紹介者にも両親にも言えなかった。

結婚生活の数か月過ぎた頃、夜中に胃けいれんになってしまった。初めての痛みに耐えられず、夫に救急車を呼んで欲しいと頼んだ。階下の両親に伝えたらしく、「結婚したばかりの嫁が救急車で運ばれたら世間体が悪い。朝までがまんさせろ!」と言われたというのだ。「この家は病気でも救急車を呼んでもらえないのだ」と痛さを耐えながら悟り、朝を迎えた経験などは1コマの事。もっとたくさんのことがあった中で、義父母、夫、弟を看取り、それらの体験で育てられた私が今日の幸せなのだと感謝している。

これから

今までの40年間は主婦と子育てをしながら「布地の手作り品」の仕事と平行して、ボランティア活動をしてきた。25年前『ハンディ&シニア企画』を仲間たちと立ち上げた。主な内容は障がい者・高齢者の着やすい洋服の研究。その作品を紹介するファッションショーでは車イスの方々と高齢者の他、子どもたちも加わり楽しい催物を実施。国際交流では日本文化も伝えるワークショップやホームの訪問など精力的に行うことが出来た。

しかし、70歳を迎え資料や材料等の断捨離を考えた。その宣言をした直後に中国交流のお誘いを受けた。2018年から2年間、中国の高齢者の生きがい作りの支援として10回往復した。中国寧波市への交流基盤を作ったY氏からのお声掛けなのだ。20年前から私たちの活動を見守っていてくれたと知り、大変うれしく、ありがたいことだと思っている。私がやれることをしていただけなのに、活動を認めてくださる方がいたことは感謝だ。楽しい日々が送れるチャンスを与えてくれた恩人でもある。2020年からはコロナ感染予防のため、海外へ行かれないけれど、収束した時には再び交流したいと思っている。

田村新吾さん

生い立ち

写真を通じて3歳ごろの情景を思い出す。思うに幼児のころ眺めた風景、遊びがすでに未来を指し示していたように思う。幼児は未来人、30年後の私がすでにいた。

昭和21年生まれ、東京の蒲田育ち。家の前の草むらの四季が私の遊び場、夢の舞台だった。父と映画をみては、草むらでおもちゃの自動車を手押しして、ジャングル探検を楽しんだ。姉とクリスマスに行った教会。そこで初めてキリスト像を見た時、自分はキリストの生まれ変わりと思い、かわいそうな人を街で見るとため息をついた。姉が買ってくれた発明発見物語に夢中になり、自分は発明家と明言し、自分の考えたアイデアが、すでに出来ていることを知って悔しがった。幼いころは食が細く栄養失調、小学校では小児性大腸炎、気管支炎と病院通いの日々。弱い人への愛情が芽生えた。絵の好きな少年だった。無心で描いた絵が、たびたび地区の展覧会で入賞した。賞を誇るよりも、商品の絵具に喜んだ。家の周りは町工場。工作機械に興味を持ち、工員の作業着に憧れた。転機が来たのは中学3年で、父が突然小金井市に転勤と引越し。武蔵野の林の中を自転車で走り回る日々。高校1年生で13センチ背が伸びる。健康になり、考えかたもしっかりしてきた。

職業人生

早稲田大学理工学部を出ると幼いころの蒲田の近くの五反田にあるソニーに入った。念願の作業着と工作機械で製品を開発した。35歳で課長、40歳で部長になった。部下を育てることと、経営陣に報告の日々。退職すると大学の教鞭を通じて、町の若者との語らいの中で創造的人材育成と起業のコーチングをしている。後世に残すテーマとして、ソニーの物語を執筆している。結局は幼い時の草むらの延長に今の私がいる。

家族

妻一人、息子一人。妻は会社で隣の課にいた。仕事が正確で、相手を立てる質。自分には出来過ぎた妻である。息子は考えこむのが好き。多くの本を読み、プロではないが哲学者肌。

私の座右の銘

立ち寄れば発見あり発見あれば創造あり

伝えたいこと

一個の人間が社会を作っています。一億個あると一億人になります。一人一人の小さな気遣いが集まると一億個の気遣いになり、国を動かし、世界を動かします。私はその一個になりたい。伝えたいことは「今を面白く」です。死ぬ時はその時を面白く人生の幕の外に消えたい、です。

2010年11月7日~ 63才

63才の誕生日を迎えて、一ヶ月もしない11月30日に、介護施設に2年以上お世話になった母が逝った。お通夜の日に、東京・大田区の中原街道沿いの葬儀場前の歩道に立つと、夕日に当たる長い影があった。自分の影は第二の自分、又は亡くなった祖先の人々と思って自分の影の写真を撮っていたが、この日はこの影は母親そのものと思えた。この影の写真は、2011年2月末に開催の沖縄展示会で「祈り」と題した作品の一部に使われた。この作品の前で、フランス・パリのGalerie Thuillierのご主人Denisに「自分でもパリで個展を開くことができるか?」と聞いてみた。県民ギャラリーという一般に開放されている場所で私が作品を展示した時に、隣のギャラリーBとCで現代フランス美術展が開催され、そこの主催者がこのDenisであった。パリの商業ギャラリーは、展示されるアーティストに一定以上の質を要求すると聞いていたので、自分の作品の前で、ギャラリーでの展示会の開催は合格が不合格かを聞いたような質問だった。合格だった。それは2013年10月に実現する。

2011年3月11日(金)午後2時46分

沖縄の展示会のあと、作品の一部をそのまま東京海上ギャラリーに沖縄から直送。ビルの地下にあるギャラリーで、平日の9時から18時まで開場。昼休みには多くの社員が面白半分に足を運んでくれた。最終日でほぼ作品を片付けた時に東北大地震が発生した。保険会社のビルは耐震構造であるはずなので、ビルの揺れは感じても倒壊する危険は無いと判断して、そのままギャラリー内に留まって揺れが収まるのを待った。その後この地震の死傷者、被災者の気持ちを想う「顔晴(がんば)れ日本」「羽たけ日本」と題するヒトマンダラ作品(人間幾何学模様作品)を個展の来場者の協力を得て次々に発表していく事になる。

2011年3月~4月 ブータン旅行

地震前から計画されていたブータン旅行は予定通り実施された。成田から飛ぶエアーインディアのジャンボ機はインド人で満席。ニューデリーで一泊後、翌日ブータンへ移動。目的は東ブータンに点在する織物、染めの専門家を訪問することで、東ブータンの国内旅行を外国人に開放し始めた頃だった。チベット仏教の巡礼者が訪問するお寺の中で、「一つ目寺」の写真はその後の作品に利用され、「影の寺」では日本から持参した自分の作品(自分の影の写真を布地に貼った1.6mx1.2mの作品)を奉納した。お寺では地震で亡くなった人々に手を合わせた。東ブータンにJAICAから派遣された体育教師が勤務する小中学校(全生徒数600人)の朝礼では、持参したバイオリンを生徒の前で披露し、校長先生と生徒会長が初めてのバイオリン演奏に挑戦した。とてつもないノコギリ音が出て大笑いだった。学校の授業は一年生の道徳の授業を除いてすべて英語での授業で、数学はカナダの教科書をカナダ人数学教師が教えていた。

2013年10月 パリの展示会

Galerie Thuillierは現代美術の聖地マレ地区にある、ピカソ美術館から400mにある商業ギャラリーである。2週間が一区切りで、年間に25回の展示会を開催している、ギャラリーはDenisが一人で切り盛りしている。ガラス越しに中の作品が見えるのでギャラリーの戸はいつも開けられて、通行人が入りやすいようにしている。海外での初めての個展がパリで開催されたのは10月始めの2週間であった。木曜日には前の展示が終わり、それをDenisが一人で片付けて、それから次の展示会の作品が準備される。オープニング・パーティーは翌週の火曜日で、ギャラリーの常連客を招待する。全く知り合いのいないパリでの個展開催でも、パーティーには50人以上の人が集まった。初めての個展では、パリに在住の友人Michelleが400ユーロの作品を購入してくれた。このときの一番強烈な印象は、Denisが飼っているブルドッグ犬を時々ギャラリーに連れてきて、隅の方に置いていることであった。2週間も一緒にいると、犬とも仲良くなったが、来廊者たちも犬をかわいがっていた。Denisとはその後2017年まで5回、パリでの個展を続けることとなる。この間に知り合ったフランス人の中には、私の作品をアトリエに飾って、アトリエ全体の色の調子を作品に会わせてくれた女性写真家もいた。自宅での夕食に呼ばれ、ナマズ料理の時は、日本人は魚の扱いに慣れているからといって私が蒸したナマズを取り分けた。彼女は僕の作品に彼岸(Over There)を感じてくれた初めての外人作家であった。

2014年11月7日 セルバンテス文化センターでの展示会が実現

スペインの詩人ガルシア・ロルカをより深く知りたいと訪れたのが、市ヶ谷駅の近くにあるセルバンテス文化センターだった。その名もガルシア・ロルカ図書館と名前が付けられた場所で本を借り、ついでに2階のギャラリーを見た。壁面は15mx12mと広い空間であり、高さは2.4m。自分の作品を展示するにはうってつけの場所と思った。その後、企画書を提出し、さらに、スペイン語で館長さんにプレゼンをした。年に4~5回の展示回数でスペイン語文化圏の国々の作品を紹介するこの場所は、中南米諸国の作家・アーティストたちの展示場所として利用されている。中南米の国数が30以上である事を考えると、企画展の実現は難しいと思った。採用されたと連絡があったのは2014年11月7日、僕の67才の誕生日プレゼントとなった。

2015年6月 鬼太鼓座とのコラボレーション

高校時代の友人で日本の現代文化を日本国際交流基金と一緒に1980年代から海外へ紹介していたT村君が2014年11月に亡くなり、お別れの会が翌年3月に四谷の音楽スタジオであった。そこで偶々知り合ったのが鬼太鼓座の人達であった。2015年5月からの日本公演は北海道、福島(会津若松)で決まっていたが、亡くなったT村君を舞台に一緒に感じてもらうために、急遽舞台背景に僕の「閃光」という作品を使用する事が決定した。2015年6月に会津若松の公演を舞台裏から見学させてもらった。舞台の背景に自分の作品があり、その前で太鼓の演奏が次々と展開してゆくと、T村君がそこにいるような感じがした。T村君のおかげで、私の壁面アート作品と別の分野のアーティストとのコラボレーションが実現した。

2017年10月 Salamancaとの出会い

2015年5月~7月まで東京・市ヶ谷にあるセルバンテス文化センターのギャラリーで「スペインの僕の影」と題した壁面アートの企画展が催行された。展示作品は、スペイン旅行中に撮影した自分の影を、着物、帯、布地、カートンボード紙に貼って、壁面アートとしたものだった。壁面を埋める一連の作品は、ライトアップされ、天井と床の黒色に挟まれて、幻想的な空間を醸し出した。そこにはスペインの音楽が期間中毎日流れていた。展示会終了後に、今度はスペインで企画展を実現したいと館長に伝えたところ、マドリッドにある画廊「フォト才」を紹介してくれた。「フォト才」に実現可能な場所を選別してもらい、その一つがSalamancaにある、サラマンカ大学付属の日西文化センターの「みちこ様ギャラリー」であった。帰国後、セルバンテス文化センターで開催された講演会で、「日本サラマンカ大学友の会」の会長をされている田中前駐西日本大使閣下にお会いした。この方とは、以前勤務していた会社の中南米の海外駐在場所の三カ所でそれぞれでお付き合いがあった。この協会は日西文化センターに人を派遣している東京の団体で、自分の企画の話をすると、友の会事務所でプレゼンをしてほしいとのことだった。その後は急展開。2017年10月Salamancaに赴いて文化センターの関係者に対して同じ内容でプレゼンを実施。その場で2018年の日本週間の目玉行事として私の企画展を催行する事が決まり、同時に、2018年3月がサラマンカ大学の創立800年にあたるため、その関連行事に認定された。これが私とSalamancaとの出会いである。

2018年3月 題名のこだわり

スペインの展示会の題名は「¿YO SOY?」(「私は誰」)に決まった。反対から書くと「¿YOS OY?」となり、右からでも同じスペルである。題名を見ただけで、左右対称であることを来廊者に想像させるために私が考えた題名である。日西文化センターの窓口の人からは、「スペイン人全員がこれはスペイン語文法にかなっていないから、正しいスペイン語に変更しなさい」と言われたとして、命令口調で変更するように諭された。しかし題名は現代美術の場合には、作品の一部でしかも重要な部分で有ると考え、友人のスペイン人(サラマンカ大学哲学部の元教授)の承認も得たので変えなかった。日西文化センターの展示会ではPalíndromo(右からでも左からでもスペルが同じ文章)という単語を説明書の中には記載せず、口頭で来場者に題名の意味するところを説明していた。翌年の「貝の家」での企画展では、主催者側が、私の説明書の書き出し部分の¿YO SOY?に続けて¿YOS OY?と書いて、さらにPalíndromoという単語を挿入してくれた。それによって、題名が左右対称、即ち展示作品が左右対称と言うことを顕示することとなった。インパクトのある題名は、入り口で多くのスペイン人の注意を引き、自分が題名にこだわった事がやっと関係者に理解してもらえた。

2018年4月 「貝の家」(La Casa de Las Conchas)との出会い

スペインのサラマンカ(マドリッドの西220km)で2018年に続いて2回目の個展が開催された場所は、州立図書館、別名「貝の家」(La Casa de las Conchas)に併設の2階の回廊で、自然の風雨が入るギャラリーであった。16世紀に建設の巡礼者を守る騎士の館であった中庭のある建物は、外壁に300以上のホタテ貝(Concha)の装飾があり、入り口のドアにも貝の装飾がある。中庭から回廊を見上げると、ギリシャのエンタシスのあるイオニア式の柱が見える。階段を上ると、2階の回廊からは、目の前にポンティフィシオ大学の大聖堂が聳えているのが見える。Salamancaは、歴史的には、2000年前にローマ橋が建設され、3世紀に既に小ローマとして栄え、さらに12世紀に建設のロマネ数様式の大聖堂、1218年に開学のサラマンカ大学があって、南北に走る「銀の道」の宿場町としても発展していた。

この「貝の家」は、マヨール広場と共に、サラマンカ市民の憩いの場所となっている。日西文化センターでの展示期間中に、Salamancaの街と人々が大好きになった。毎日展示場が閉館になると、街のバールでワインとおつまみを本屋のManuel君と一緒に楽しんだ。過去の展示会で実施していたように、私の作品の前で来廊者の写真を撮り、それをその次の展示会で作品にしてレピーターに見て頂くというこれまでのプロジェクトを意識して、「貝の家」(現在は州立図書館)の職員達が偶々来廊した時に、プロジェクトの内容を説明して写真を撮らせて頂いた。翌年(2019年)にSalamancaの「貝の家」のギャラリ-で展示会を催行したい希望を伝えた。展示会が実現することを想定して、大型の作品をManuel君の本屋の倉庫に置かせてもらって、Salamancaを2018年4月末に発って日本に帰国した。

2019年6月4日~6月30日 「貝の家」での展示

企画書が承認されたのは2019年1月。実施は5月終わりから6月末で詳細は追って連絡すると。具体的な詳細が伝えられたのは、私がSalamancaに到着した5月26日から1週間後で、しかも州主催の催事が5月末にあるので、展示は6月4日からとなった。


前日にSalamanca在住の日本人の友人に手伝ってもらい、どうにか展示を終えることができた。しかし、展示開始日の翌日はSalamanca地方に暴風雨が来るという天気予報で、夕方からギャラリーへも強い風が吹き込み、作品は空中に舞い上がっていた。主催者側からは、作品すべてを透明なビニールで覆ったらとのアドバイスがあったが、作品を丁寧にピン止めして、どうにか急場をしのいだ。作品の一部の写真は、風で空中に飛んで、屋根にかかってしまったので、そのままの状態で展示した。空が見える回廊のギャラリーは、野鳩にとっては格好の寝場所となり、毎日床に落ちた糞を作品から取り除いて掃除するのが日課となった。会期中の来廊者数は約17500人であった。

2020年2月 コラージュ作品「迷路」の完成

Salamancaで撮影した写真を素材にして、次の展示会をまたSalamancaで開催したいと思って、構想を練っていた頃、コロナの影響で、予定された展示会すべてがキャンセルとなり、出口なしの閉塞感を味わった。そんな頃にヒトの写真を使って表現した作品が「迷路」である。「私は誰」¿YO SOY?という「貝の家」の展示会のテーマに沿った作品とも言える。この作品は、2020年9月に市ヶ谷駅のプロムナードギャラリーで展示され、さらに、10月の横浜みなとみらいホールの個展でも展示された。コロナ渦下での展示会には472名の来廊者があった。今回は、レピーターは40名、新規参加者は16名。来廊者に声を掛けて話をすると、2018年にスペインのSalamancaで展示をしたサラマンカ大学付属日西文化センターで3ヶ月間スペイン語を勉強したことがある女性や、サラマンカ大学卒業の鎌倉に住むスペイン人の人もいて、サラマンカと展示会との縁を感じた。

2020年10月17日(土)マリンバ演奏とのコラボレーション

横浜みなとみらいギャラリーでの展示会期中にマリンバ奏者のY岡氏、S浜氏のお二人に会場でのマリンバ演奏をお願いした。曲目は「岩橋格 Mandala」という私の作品を見てイメージしたY岡氏の作曲で、10分以上の聴き応えのある曲であった。ギャラリー内のイス席のみならず、通路にも人が立って演奏を聴いてくださり、無事に「岩橋格のMANDALA」という曲もお披露目ができた。高い天井と風通しの良い会場のおかげで、コロナ対策も万全であった。

2020年11月7日 73才 岩橋 格

私の子ども時代

小学生の頃は、体育や図工が好きで、自信のある活発な少年でした。小学生の頃の将来の夢は小学校の先生になることでした。

中学・高校の頃

中学・高校は普通の公立に通い、趣味でプラモデルを作ったり生徒会などをしていました。

高校3年生の夏までは小学校教師になるという夢があったため他の職業を考えていませんでしたが、その夢を親に反対されたことで、自分が将来何になるのかという問題を突き付けられました。何に向かっていけばいいのか悩み、地に足がついていないような気持ちで受験勉強していました。

私の転機 ~最初の節目~

高校時代、たまたま雑誌を見ていて留学という言葉が目に飛び込んできたのをきっかけに海外にいくという選択肢もあると閃き、高校卒業したらアメリカに留学しようと決めました。これがひとつの転機になりましたね。

アメリカの大学に進学

高校卒業後アメリカの大学に進学しました。その頃に趣味でギターを始めたのですが、それまではギターなんて難しくて自分にはできないと思い込んでいたものの、練習すると弾けるようになりました。また一日8時間ビリヤードを練習した結果、上手な人に勝てるようになりました。ギターやビリヤードで練習した分だけちゃんとできるようになる経験をして、“自分はやればできる”ことに気づきました。それをギターやビリヤードだけでなく勉強に向けてみたところ、(一科目だけ試験時間を間違えて受けられなかった科目を除いて)オールAを取得できました。努力すれば結果を出せるのだと気づき始めたのです。大学生4年間は、少しずつ自分に自信がつき始めた人生の転換期でした。

大学4年生のときの節目 ~プログラミングとの出会い~

大学4年生のときパソコンを買いに行った店で、何の気なしにC言語の書籍を購入したところ、気づいたら3日間徹夜でプログラミングしていました。“プログラミングを自分の職にできたらどんなに素敵だろう”と思いました。

大学での専攻は文系でしたが、25歳でニューハンプシャー州にある大学院に進学しコンピューターサイエンスを学び始めました。

大学院に進学した際、“小さな大学でもオールAで卒業すれば働き口が見つかるだろう、徹底して勉強してオールAを取ろう”という自分のゴールを設定しました。大学時代に、自分も努力すれば結果が出ることに気づいていたので、徹底して勉強してオールAを取得し、目標を叶えました。

人の縁に支えられて

大学院を卒業する2~3ケ月前に、知人の紹介で面接した会社がインターンとして雇ってくれることになりました。ただ大学院を卒業したというだけでは就職は難しいかもしれませんが、人の助けを借りて、人に支えられたからこそ就職できたのだと思い、とても感謝しています。

インターン時代

インターン先の会社での最初の数か月間は、自分の人生の中で一番つらかったけれども、そのぶん実力がついた時期でした。技術的に優れた会社であり、能力が高い人がたくさんいました。毎晩遅くまで残ってディスプレイを見ていたため視力が落ちるほど大変でした。しかしその努力の甲斐あって、正社員になって欲しいとのオファーをもらうことができました。その会社では約10年間ほど働きました。

社会人になってからの節目 ~最初の転職~

2000年代前半、私がちょうど三十代半ばの頃に、最初に勤めた会社を辞めて転職しました。ちょうどその頃は双子の娘が産まれたばかりだったので、同僚からは「子どもが2人もできて安定が必要になる大事な時になぜ会社を辞めるのか」と聞かれました。

しかし当時の私は、むしろ子どもができたからこそ転職が必要だと判断したのです。

というのも、2000年頃はちょうど世の中にインターネットの波が来ようとしていた時代でした。技術の波は10年おきで訪れます。今で例えるならAIのような感じでしょうか、時代の波がそちらに向いていました。

そのような中で、私は、これからの時代ではインターネットとデータベースの二つが重要になると感じ取り、それらに関するキャリアを積みたいと考えました。子どもが二人できたからこそ、時代の波、技術の波に自分を合わせられるように転職したのです。

初めての転職のあと

転職した会社に5か月ほど勤めた後、2社を経てDELLに入社して2~3年ほど勤めました。その後テキサスにいる知人とオンラインゲームの会社を立ち上げましたが2年ほどで畳み、DELLに戻り1年ほど働きました。

アメリカ東海岸から西海岸へ

2013年頃、マイクロソフト社のリクルーターから連絡があり面接して採用されました。当時の私は妻と小学校3年生だった娘達と猫達とボストンの近くに住んでいましたが、「(マイクロソフト社のある)西海岸に引っ越すのはどう?」と家族会議で話し合い、シアトルへの引越と転職を決めました。

マイクロソフト社での日々

最初に配属された部署では大学を出たての若い人が多かったですが、私は中途採用でしたのでシニアエンジニアとして高い生産性を求められました。大会社に入ったのは初めてで、最初は社内での作法などがわからず、大会社の働き方に順応するのは大変でした。

次に配属された部署でも苦労しました。とにかく優秀な人々が世界中から集まっていたのです。東大や京大、北京大学など、それぞれの国のトップの大学を出ていて、IQやEQも高い人たちです。例えば “6歳からコンピューターを扱っていて父母もスーパースター” などといったまさしくサラブレットといえる人々に囲まれて、かたや私は日本の地方都市出身で、家族のなかにプログラミングやコンピューターなどを専門的にやっている者もおらず、サラブレッドとはいえませんでした。そのような中で切磋琢磨し常に常に学び続けていないといけない環境でしたので、とにかく大変でした。しかしそれは私が自ら望んだ環境でもありました。私は勉強が好きですし、良い刺激もたくさんもらえました。

私には上記に加え母国語の環境ではないというハンデもありましたが、そのような状況であっても、自分の潜在能力や興味がマッチした職種であれば、世界のトップレベルの人たちと一緒に働けるということを証明できたと思います。

私の座右の銘 ~マイクロソフト社で学んだ価値観~

マイクロソフト社で勤務する中で、キャロル・ドウェック博士(スタンフォード大学)について知りました。博士は、次のようなことを語っています。

人間は生まれ持った才能で固定されているのではなく、努力すれば脳も含めていくらでも成長できる。失敗は成功への糧でしかない。

これは企業だけでなく、いかなる組織、いかなる個人にも当てはまります。

マイクロソフト社は、失敗を隠す文化ではなく、失敗を“難しいことに挑戦した証拠である”と捉えていました。失敗から学んで、人に助けを求め、人から助けてもらって、自分も人を助ける、という文化が根付いており、深く感銘を受けました。

私の家族 ~私を救ってくれた妻~

私が人生で最も影響を受けた人物は妻であるといえます。妻から学んだことは枚挙にいとまがありませんが、その中から一つを上げるとすれば、“何事も相対的であり世の中に絶対的なものはない。世の中に絶対的に良いこと・悪いことはなく、すべては立場の違いやその時の状況によるものだ”ということです。 それまでの私は真面目な性分でしたが、妻との出会いによって“絶対的に正しくないといけないってことはないんだ、もっと緩く、だいたいでいいんだ”という風に物事を捉えられるようになり、生きていく上でのストレスがかなり減りました。

私の家族 ~二人の愛する娘たち~

妻との間に双子の娘がおり、娘たちはちょうど16歳になりたてです。 彼女達はアメリカ生まれアメリカ育ちで、日本へは旅行で数回いっただけで日本に住んだことはありませんが、日本の漫画が大好きです。ついこの前もシアトルの紀伊国屋で「鬼滅の刃」を購入しました。

また、「僕のヒーローアカデミア」や「ハイキュー」なども好きみたいですね。映画については、スタジオジブリ作品は全部見ていますし、「君の名は」や「天気の子」などは2回ずつ見るほど好きで、アメリカ育ちでありながら日本文化をすごく楽しんでいます。

アニメや漫画などは、単なるエンタメではなく、文化を伝えるメディアとして機能していると感じます。私も漫画が好きで、「ワンピース」を集めるなどしています。

僕と、僕の家族が、いつも大切にしている価値観

主体性を持つことを大切にしています。主体性とは、すなわち「自由」そのものです。私たち夫婦は、“自分が本当に必要と思うことや好きなもので高得点をとればいい、それ以外のものはだいたいでいい‟というスタンスで子育てしています。

娘たちに課される宿題は多いのですが、中学生になって以降は、妻は娘たちの宿題をみなくなりましたし、成績に関してもとやかく言いません。

身に着けた技術・知識・能力は誰にも奪われません。たとえ道に放り出されてもそれらによってお金を得ることができ、生きてゆくことができるのです。

知久信義さん

私の生い立ち

私は、昭和13年に東京都中野区鷺宮に生まれました。現在82歳です。子どもの頃、父の転勤で千葉の館山に引っ越しました。幼稚園、小学校、中学校、高校と館山で暮らし、高校卒業と同時に上京しました。

父は私が小学校2年生のときに亡くなり、母は女手一つで私を含めた子ども3人を育ててくれました。

私の略歴

大学に入る前にいろいろありましたね。高校を卒業した後は運送業者に就職し、お客様の買った商品を自転車で自宅に配送する仕事をしていました。

大学に行くため、運送業者を辞めてヤマト運輸の下請けの印刷会社に就職し、夜間の大学でスペイン語を勉強しました。印刷会社を退職し、三菱地所のエレベーターボーイをしながら3年次編入した大学に通いました。青山学院大学経済学部を卒業し、青山学院中等部に勤務した後、特殊法人国立競技場司計課勤務を経て、新日本証券株式会社に勤務しました。

昭和57年に同社の企業部に配属されました。この部署は株式公開、資金政策、資金調達、従業員持株会の発足、M&A等の支援をするところで、私自身もいくつかの企業の株式公開などを手がけました。

平成元年に新日本ファイナンス株式会社に出向し、株式公開準備をする企業の資金調達などに関する仕事を手がけました。それらの経験や人脈を生かし、平成14年には証券会社などを中心に6つの企業の顧問に就任しました。 令和2年7月から特定非営利法人イカス(ICAS)の常任理事に就任しています。

私の節目 ~ライフワークであるベンチャー企業支援をスタート~

新日本ファイナンスに入ったときから、ベンチャー企業の支援という私のライフワークが始まりました。これが私の人生のターニングポイント、すなわち節目ですね。

ベンチャー企業支援の魅力

ベンチャー以外にもたくさん会社はある中で、なぜベンチャー企業の支援をしているのか。ベンチャー企業を支援することはとても魅力的な仕事なのです。実にいろいろな社長がいるので、常に新しい社長に出会って、人生観や今後の展望、苦労話などの話を聞けるのはとても楽しいことです。さまざまな経営者との対話などを通して、まるで“竹藪の中のかぐや姫”のようにピカリと光る会社を発掘することには大変やりがいがあります。人の縁を大切にしながら人・物・金のマッチングをしていく、このような仕事をずっと行ってきており、これから先も取り組んでいきたいと考えています。

企業支援のポイントとしては、すばらしい技術を持っていることも重要ですが、誰と組んでどこで売るかということが大事です。ドラッカーの顧客の創造などが参考になりますね。

人脈づくりが大切! ~人の縁~

ベンチャー企業支援をするにあたって私がモットーとしているのは、とにかく“その場でできることをする”ということです。新しい人と出会うとき、必ず「何かこまっていることはありませんか?」と尋ねます。その場でその件に関係がありそうな人を紹介します。

そのとき目の前にいる人や会社が必要としている点、困っている点などに対して、スピードを重視して、とにかくその場でできることをやるというのが自分の特色です。 明日、明後日まで待ってもらうということはしません。これが私の人脈作りの基本です。

私の節目 ~孫正義氏との出会い~

あれは昭和58年頃だったでしょうか。私が新日本ファイナンスに勤務していたころ、新聞を見て当時20代後半だった孫正義氏を知りました。ほとんど飛び込みのような形で訪ねて、上場前の融資の取得などを手伝うことができました。

私の趣味

ゴルフ、カラオケ、異業種講習会への参加(縁を大切にしています)。

私の好きな本

「孫子」(兵法)、モンテーニュ「随想録」、「三国志」など。

私の座右の銘

「人事を尽くして天命を待つ」