菊池裕子さん(72歳・女性)

菊池裕子さん

生まれ

疎開先の新潟県で昭和23年7月に生まれた。瓜棚の下で撮影された家族7人の写真は、40歳代の両親、11歳、9歳上の姉たち、6歳と4歳違いの兄たちと生まれたばかりの私。家の前が海で8月頃の涼しそうな一枚だ。

昨年の秋、70年後の郷里を電車で通過。現在は線路際まで建物があるが、昭和の当時は車窓から日本海まで見渡せたと姉から聞いていたので何㎞か先の風景を想像してみた。

戦後生まれの私が一歳になったので、東京に戻るが、家は焼かれ、その土地はすでに他の人が住んでいた。所有者としての権利が消滅していたと知った。近所の方によると「立て札を立てて、連絡を待っていたのに…。数ヶ月遅かった」と聞きガクゼンとした。

新しい住居を見つけるまでの苦労話の中の一つは、母が残しておいた着物類を売った。何故残っていたのかというと、疎開先の田舎の人に着物とお米の物々交換を頼むのだが絹物は農家では価値はなく、木綿のみ。タオルはダメだが手ぬぐいならば野菜と交換してくれた。東京育ちの母にとって、価値観の違いに驚き、今で言うカルチャーショックだったそうだ。東京では復興も始まり、高級な絹の着物類は貴重品として売られ、お金の工面に少しは役に立ったそうだ。家探しには大変苦労があったことと思う。

新宿区に住む

新しい住まいは早稲田大学の近くだった。大隈講堂の時計台や遠くには椿山荘の三重塔が見える高台。父親の趣味で庭には四季折々の草花が咲き、大樹のいちじくが4~5本あった。新潟から連れてきた「ラッシー」という名の大きなイングリッシュ・セッター犬が放たれていて、私は怖かった思い出がある。

東京で父は新たに写真を仕事とした。陸軍に入隊し、中国で負傷していたことから、新潟でライカカメラを手に入れ準備していた。

仕事先へ行くために自転車を購入。交通費を稼ぐためどこまでも自転車を使った。雨降りで戻った時は大変だ。すぐ上の兄が借り出され磨かせられた。現代と違いすぐにサビてしまうため、高額で貴重な自動車は即刻きれいに拭かなければならない。

そんな大切にしている自転車だが、私は「三角乗り」が出来るようになっていた。小学4~5年生の頃のある日、友だちと遠くまで出掛けることになり、母から父の自転車を貸してもらえた。友人が子ども用の自転車を買ったので誘われたのだ。ピカピカの新しい自転車で爽快に走る友人がうらやましく一生懸命追いかけた。江戸川橋あたりまでは平坦だが、神田川からは急な登り坂だ。大人用が重くて大変な思いをして押した。あたりはだんだん夕闇が迫っている。引き返すことなど考えず、目的地に向かって登り切った。

帰宅した時はすでに暗くなってしまい、母にさんざん叱られた。しかも「夕食抜き」の罰となった。こんなことは初めてなので、兄はわざとおいしそうに食べて見せ悔しかった。「こんなに心配されるんだ」と反省。今、思えば私のことより父の足である自転車が心配だったのだ。こんな体罰は最初で最後であるから。

その父が60歳を間近になり体力を考えて写真スタジオを開きたいと考えた。

毎日、毎日店舗付き住宅を捜し歩き続け、ある日、帰宅すると母に「とうとう候補地は山手線の外側になってしまったよ」と残念そうに報告していた。幼心に理想通りにはいかないことを知った。

品川区に住む

中学一年生の夏休み中に急に引越すことを知らされた。小・中学校の友人とお別れも出来ないままでとても残念に思った。9月1日に新しい中学の制服もわからず教科書もないままにスタート。クラスの友人関係は一学期にだいたい出来るので、中々入り辛く困った。


この転校経験は私にとっては大きな転機だったのだが、戦時中の姉たちは繰り返しの疎開だったため小学校は5回も変わったとのことなので、何も言えなくなっている。
社会人となってそろそろ結婚をしなくては母を悲しませてしまう…。


それでは、結婚したら出来ないことをしておこうと考えた。何かな~?海外を見ることだと思った。昭和40年代は一ドル360円の頃で、今のように気軽に行くことは無理だったから。グアムのロタ島から始まり、北廻りや南廻りなどでヨーロッパ見聞へ。青春を謳歌して、とうとう、世の常であったお見合いをすることに。

結婚後の家族

結婚相手の条件は両親と同居することだった。結婚後わかったことがたくさんあった。義父は戦争の爆弾の研究で心臓を悪くし、障がい者認定で仕事はしていなかった。義母が洋裁技術で生活を支えてがんばって働いていた。二歳違いの弟がおり、夫はサラリーマンだった。

結納も済み何回か家を訪問した時に外観はわかったが「二階に住んでもらう」とだけ聞いていた。結婚式を間近に控えやっと案内してもらえたら、アパート型式の4室のうちの一部屋。6畳とキッチンのみと知り驚いた。結婚話を断ろうと思ったくらいビックリしたけれど、結婚したら更に驚いたことには、2年前に新築した家はローン支払いだった。義母に「一緒に返済して欲しい」と言われた。「同居の条件とはこのことだったのか?」。あまりにも無知だった自分自身にあきれ、紹介者にも両親にも言えなかった。

結婚生活の数か月過ぎた頃、夜中に胃けいれんになってしまった。初めての痛みに耐えられず、夫に救急車を呼んで欲しいと頼んだ。階下の両親に伝えたらしく、「結婚したばかりの嫁が救急車で運ばれたら世間体が悪い。朝までがまんさせろ!」と言われたというのだ。「この家は病気でも救急車を呼んでもらえないのだ」と痛さを耐えながら悟り、朝を迎えた経験などは1コマの事。もっとたくさんのことがあった中で、義父母、夫、弟を看取り、それらの体験で育てられた私が今日の幸せなのだと感謝している。

これから

今までの40年間は主婦と子育てをしながら「布地の手作り品」の仕事と平行して、ボランティア活動をしてきた。25年前『ハンディ&シニア企画』を仲間たちと立ち上げた。主な内容は障がい者・高齢者の着やすい洋服の研究。その作品を紹介するファッションショーでは車イスの方々と高齢者の他、子どもたちも加わり楽しい催物を実施。国際交流では日本文化も伝えるワークショップやホームの訪問など精力的に行うことが出来た。

しかし、70歳を迎え資料や材料等の断捨離を考えた。その宣言をした直後に中国交流のお誘いを受けた。2018年から2年間、中国の高齢者の生きがい作りの支援として10回往復した。中国寧波市への交流基盤を作ったY氏からのお声掛けなのだ。20年前から私たちの活動を見守っていてくれたと知り、大変うれしく、ありがたいことだと思っている。私がやれることをしていただけなのに、活動を認めてくださる方がいたことは感謝だ。楽しい日々が送れるチャンスを与えてくれた恩人でもある。2020年からはコロナ感染予防のため、海外へ行かれないけれど、収束した時には再び交流したいと思っている。