渡辺毅さん(51歳・男性)

私の子ども時代

小学生の頃は、体育や図工が好きで、自信のある活発な少年でした。小学生の頃の将来の夢は小学校の先生になることでした。

中学・高校の頃

中学・高校は普通の公立に通い、趣味でプラモデルを作ったり生徒会などをしていました。

高校3年生の夏までは小学校教師になるという夢があったため他の職業を考えていませんでしたが、その夢を親に反対されたことで、自分が将来何になるのかという問題を突き付けられました。何に向かっていけばいいのか悩み、地に足がついていないような気持ちで受験勉強していました。

私の転機 ~最初の節目~

高校時代、たまたま雑誌を見ていて留学という言葉が目に飛び込んできたのをきっかけに海外にいくという選択肢もあると閃き、高校卒業したらアメリカに留学しようと決めました。これがひとつの転機になりましたね。

アメリカの大学に進学

高校卒業後アメリカの大学に進学しました。その頃に趣味でギターを始めたのですが、それまではギターなんて難しくて自分にはできないと思い込んでいたものの、練習すると弾けるようになりました。また一日8時間ビリヤードを練習した結果、上手な人に勝てるようになりました。ギターやビリヤードで練習した分だけちゃんとできるようになる経験をして、“自分はやればできる”ことに気づきました。それをギターやビリヤードだけでなく勉強に向けてみたところ、(一科目だけ試験時間を間違えて受けられなかった科目を除いて)オールAを取得できました。努力すれば結果を出せるのだと気づき始めたのです。大学生4年間は、少しずつ自分に自信がつき始めた人生の転換期でした。

大学4年生のときの節目 ~プログラミングとの出会い~

大学4年生のときパソコンを買いに行った店で、何の気なしにC言語の書籍を購入したところ、気づいたら3日間徹夜でプログラミングしていました。“プログラミングを自分の職にできたらどんなに素敵だろう”と思いました。

大学での専攻は文系でしたが、25歳でニューハンプシャー州にある大学院に進学しコンピューターサイエンスを学び始めました。

大学院に進学した際、“小さな大学でもオールAで卒業すれば働き口が見つかるだろう、徹底して勉強してオールAを取ろう”という自分のゴールを設定しました。大学時代に、自分も努力すれば結果が出ることに気づいていたので、徹底して勉強してオールAを取得し、目標を叶えました。

人の縁に支えられて

大学院を卒業する2~3ケ月前に、知人の紹介で面接した会社がインターンとして雇ってくれることになりました。ただ大学院を卒業したというだけでは就職は難しいかもしれませんが、人の助けを借りて、人に支えられたからこそ就職できたのだと思い、とても感謝しています。

インターン時代

インターン先の会社での最初の数か月間は、自分の人生の中で一番つらかったけれども、そのぶん実力がついた時期でした。技術的に優れた会社であり、能力が高い人がたくさんいました。毎晩遅くまで残ってディスプレイを見ていたため視力が落ちるほど大変でした。しかしその努力の甲斐あって、正社員になって欲しいとのオファーをもらうことができました。その会社では約10年間ほど働きました。

社会人になってからの節目 ~最初の転職~

2000年代前半、私がちょうど三十代半ばの頃に、最初に勤めた会社を辞めて転職しました。ちょうどその頃は双子の娘が産まれたばかりだったので、同僚からは「子どもが2人もできて安定が必要になる大事な時になぜ会社を辞めるのか」と聞かれました。

しかし当時の私は、むしろ子どもができたからこそ転職が必要だと判断したのです。

というのも、2000年頃はちょうど世の中にインターネットの波が来ようとしていた時代でした。技術の波は10年おきで訪れます。今で例えるならAIのような感じでしょうか、時代の波がそちらに向いていました。

そのような中で、私は、これからの時代ではインターネットとデータベースの二つが重要になると感じ取り、それらに関するキャリアを積みたいと考えました。子どもが二人できたからこそ、時代の波、技術の波に自分を合わせられるように転職したのです。

初めての転職のあと

転職した会社に5か月ほど勤めた後、2社を経てDELLに入社して2~3年ほど勤めました。その後テキサスにいる知人とオンラインゲームの会社を立ち上げましたが2年ほどで畳み、DELLに戻り1年ほど働きました。

アメリカ東海岸から西海岸へ

2013年頃、マイクロソフト社のリクルーターから連絡があり面接して採用されました。当時の私は妻と小学校3年生だった娘達と猫達とボストンの近くに住んでいましたが、「(マイクロソフト社のある)西海岸に引っ越すのはどう?」と家族会議で話し合い、シアトルへの引越と転職を決めました。

マイクロソフト社での日々

最初に配属された部署では大学を出たての若い人が多かったですが、私は中途採用でしたのでシニアエンジニアとして高い生産性を求められました。大会社に入ったのは初めてで、最初は社内での作法などがわからず、大会社の働き方に順応するのは大変でした。

次に配属された部署でも苦労しました。とにかく優秀な人々が世界中から集まっていたのです。東大や京大、北京大学など、それぞれの国のトップの大学を出ていて、IQやEQも高い人たちです。例えば “6歳からコンピューターを扱っていて父母もスーパースター” などといったまさしくサラブレットといえる人々に囲まれて、かたや私は日本の地方都市出身で、家族のなかにプログラミングやコンピューターなどを専門的にやっている者もおらず、サラブレッドとはいえませんでした。そのような中で切磋琢磨し常に常に学び続けていないといけない環境でしたので、とにかく大変でした。しかしそれは私が自ら望んだ環境でもありました。私は勉強が好きですし、良い刺激もたくさんもらえました。

私には上記に加え母国語の環境ではないというハンデもありましたが、そのような状況であっても、自分の潜在能力や興味がマッチした職種であれば、世界のトップレベルの人たちと一緒に働けるということを証明できたと思います。

私の座右の銘 ~マイクロソフト社で学んだ価値観~

マイクロソフト社で勤務する中で、キャロル・ドウェック博士(スタンフォード大学)について知りました。博士は、次のようなことを語っています。

人間は生まれ持った才能で固定されているのではなく、努力すれば脳も含めていくらでも成長できる。失敗は成功への糧でしかない。

これは企業だけでなく、いかなる組織、いかなる個人にも当てはまります。

マイクロソフト社は、失敗を隠す文化ではなく、失敗を“難しいことに挑戦した証拠である”と捉えていました。失敗から学んで、人に助けを求め、人から助けてもらって、自分も人を助ける、という文化が根付いており、深く感銘を受けました。

私の家族 ~私を救ってくれた妻~

私が人生で最も影響を受けた人物は妻であるといえます。妻から学んだことは枚挙にいとまがありませんが、その中から一つを上げるとすれば、“何事も相対的であり世の中に絶対的なものはない。世の中に絶対的に良いこと・悪いことはなく、すべては立場の違いやその時の状況によるものだ”ということです。 それまでの私は真面目な性分でしたが、妻との出会いによって“絶対的に正しくないといけないってことはないんだ、もっと緩く、だいたいでいいんだ”という風に物事を捉えられるようになり、生きていく上でのストレスがかなり減りました。

私の家族 ~二人の愛する娘たち~

妻との間に双子の娘がおり、娘たちはちょうど16歳になりたてです。 彼女達はアメリカ生まれアメリカ育ちで、日本へは旅行で数回いっただけで日本に住んだことはありませんが、日本の漫画が大好きです。ついこの前もシアトルの紀伊国屋で「鬼滅の刃」を購入しました。

また、「僕のヒーローアカデミア」や「ハイキュー」なども好きみたいですね。映画については、スタジオジブリ作品は全部見ていますし、「君の名は」や「天気の子」などは2回ずつ見るほど好きで、アメリカ育ちでありながら日本文化をすごく楽しんでいます。

アニメや漫画などは、単なるエンタメではなく、文化を伝えるメディアとして機能していると感じます。私も漫画が好きで、「ワンピース」を集めるなどしています。

僕と、僕の家族が、いつも大切にしている価値観

主体性を持つことを大切にしています。主体性とは、すなわち「自由」そのものです。私たち夫婦は、“自分が本当に必要と思うことや好きなもので高得点をとればいい、それ以外のものはだいたいでいい‟というスタンスで子育てしています。

娘たちに課される宿題は多いのですが、中学生になって以降は、妻は娘たちの宿題をみなくなりましたし、成績に関してもとやかく言いません。

身に着けた技術・知識・能力は誰にも奪われません。たとえ道に放り出されてもそれらによってお金を得ることができ、生きてゆくことができるのです。