岩橋格さん(73歳・男性)

2010年11月7日~ 63才

63才の誕生日を迎えて、一ヶ月もしない11月30日に、介護施設に2年以上お世話になった母が逝った。お通夜の日に、東京・大田区の中原街道沿いの葬儀場前の歩道に立つと、夕日に当たる長い影があった。自分の影は第二の自分、又は亡くなった祖先の人々と思って自分の影の写真を撮っていたが、この日はこの影は母親そのものと思えた。この影の写真は、2011年2月末に開催の沖縄展示会で「祈り」と題した作品の一部に使われた。この作品の前で、フランス・パリのGalerie Thuillierのご主人Denisに「自分でもパリで個展を開くことができるか?」と聞いてみた。県民ギャラリーという一般に開放されている場所で私が作品を展示した時に、隣のギャラリーBとCで現代フランス美術展が開催され、そこの主催者がこのDenisであった。パリの商業ギャラリーは、展示されるアーティストに一定以上の質を要求すると聞いていたので、自分の作品の前で、ギャラリーでの展示会の開催は合格が不合格かを聞いたような質問だった。合格だった。それは2013年10月に実現する。

2011年3月11日(金)午後2時46分

沖縄の展示会のあと、作品の一部をそのまま東京海上ギャラリーに沖縄から直送。ビルの地下にあるギャラリーで、平日の9時から18時まで開場。昼休みには多くの社員が面白半分に足を運んでくれた。最終日でほぼ作品を片付けた時に東北大地震が発生した。保険会社のビルは耐震構造であるはずなので、ビルの揺れは感じても倒壊する危険は無いと判断して、そのままギャラリー内に留まって揺れが収まるのを待った。その後この地震の死傷者、被災者の気持ちを想う「顔晴(がんば)れ日本」「羽たけ日本」と題するヒトマンダラ作品(人間幾何学模様作品)を個展の来場者の協力を得て次々に発表していく事になる。

2011年3月~4月 ブータン旅行

地震前から計画されていたブータン旅行は予定通り実施された。成田から飛ぶエアーインディアのジャンボ機はインド人で満席。ニューデリーで一泊後、翌日ブータンへ移動。目的は東ブータンに点在する織物、染めの専門家を訪問することで、東ブータンの国内旅行を外国人に開放し始めた頃だった。チベット仏教の巡礼者が訪問するお寺の中で、「一つ目寺」の写真はその後の作品に利用され、「影の寺」では日本から持参した自分の作品(自分の影の写真を布地に貼った1.6mx1.2mの作品)を奉納した。お寺では地震で亡くなった人々に手を合わせた。東ブータンにJAICAから派遣された体育教師が勤務する小中学校(全生徒数600人)の朝礼では、持参したバイオリンを生徒の前で披露し、校長先生と生徒会長が初めてのバイオリン演奏に挑戦した。とてつもないノコギリ音が出て大笑いだった。学校の授業は一年生の道徳の授業を除いてすべて英語での授業で、数学はカナダの教科書をカナダ人数学教師が教えていた。

2013年10月 パリの展示会

Galerie Thuillierは現代美術の聖地マレ地区にある、ピカソ美術館から400mにある商業ギャラリーである。2週間が一区切りで、年間に25回の展示会を開催している、ギャラリーはDenisが一人で切り盛りしている。ガラス越しに中の作品が見えるのでギャラリーの戸はいつも開けられて、通行人が入りやすいようにしている。海外での初めての個展がパリで開催されたのは10月始めの2週間であった。木曜日には前の展示が終わり、それをDenisが一人で片付けて、それから次の展示会の作品が準備される。オープニング・パーティーは翌週の火曜日で、ギャラリーの常連客を招待する。全く知り合いのいないパリでの個展開催でも、パーティーには50人以上の人が集まった。初めての個展では、パリに在住の友人Michelleが400ユーロの作品を購入してくれた。このときの一番強烈な印象は、Denisが飼っているブルドッグ犬を時々ギャラリーに連れてきて、隅の方に置いていることであった。2週間も一緒にいると、犬とも仲良くなったが、来廊者たちも犬をかわいがっていた。Denisとはその後2017年まで5回、パリでの個展を続けることとなる。この間に知り合ったフランス人の中には、私の作品をアトリエに飾って、アトリエ全体の色の調子を作品に会わせてくれた女性写真家もいた。自宅での夕食に呼ばれ、ナマズ料理の時は、日本人は魚の扱いに慣れているからといって私が蒸したナマズを取り分けた。彼女は僕の作品に彼岸(Over There)を感じてくれた初めての外人作家であった。

2014年11月7日 セルバンテス文化センターでの展示会が実現

スペインの詩人ガルシア・ロルカをより深く知りたいと訪れたのが、市ヶ谷駅の近くにあるセルバンテス文化センターだった。その名もガルシア・ロルカ図書館と名前が付けられた場所で本を借り、ついでに2階のギャラリーを見た。壁面は15mx12mと広い空間であり、高さは2.4m。自分の作品を展示するにはうってつけの場所と思った。その後、企画書を提出し、さらに、スペイン語で館長さんにプレゼンをした。年に4~5回の展示回数でスペイン語文化圏の国々の作品を紹介するこの場所は、中南米諸国の作家・アーティストたちの展示場所として利用されている。中南米の国数が30以上である事を考えると、企画展の実現は難しいと思った。採用されたと連絡があったのは2014年11月7日、僕の67才の誕生日プレゼントとなった。

2015年6月 鬼太鼓座とのコラボレーション

高校時代の友人で日本の現代文化を日本国際交流基金と一緒に1980年代から海外へ紹介していたT村君が2014年11月に亡くなり、お別れの会が翌年3月に四谷の音楽スタジオであった。そこで偶々知り合ったのが鬼太鼓座の人達であった。2015年5月からの日本公演は北海道、福島(会津若松)で決まっていたが、亡くなったT村君を舞台に一緒に感じてもらうために、急遽舞台背景に僕の「閃光」という作品を使用する事が決定した。2015年6月に会津若松の公演を舞台裏から見学させてもらった。舞台の背景に自分の作品があり、その前で太鼓の演奏が次々と展開してゆくと、T村君がそこにいるような感じがした。T村君のおかげで、私の壁面アート作品と別の分野のアーティストとのコラボレーションが実現した。

2017年10月 Salamancaとの出会い

2015年5月~7月まで東京・市ヶ谷にあるセルバンテス文化センターのギャラリーで「スペインの僕の影」と題した壁面アートの企画展が催行された。展示作品は、スペイン旅行中に撮影した自分の影を、着物、帯、布地、カートンボード紙に貼って、壁面アートとしたものだった。壁面を埋める一連の作品は、ライトアップされ、天井と床の黒色に挟まれて、幻想的な空間を醸し出した。そこにはスペインの音楽が期間中毎日流れていた。展示会終了後に、今度はスペインで企画展を実現したいと館長に伝えたところ、マドリッドにある画廊「フォト才」を紹介してくれた。「フォト才」に実現可能な場所を選別してもらい、その一つがSalamancaにある、サラマンカ大学付属の日西文化センターの「みちこ様ギャラリー」であった。帰国後、セルバンテス文化センターで開催された講演会で、「日本サラマンカ大学友の会」の会長をされている田中前駐西日本大使閣下にお会いした。この方とは、以前勤務していた会社の中南米の海外駐在場所の三カ所でそれぞれでお付き合いがあった。この協会は日西文化センターに人を派遣している東京の団体で、自分の企画の話をすると、友の会事務所でプレゼンをしてほしいとのことだった。その後は急展開。2017年10月Salamancaに赴いて文化センターの関係者に対して同じ内容でプレゼンを実施。その場で2018年の日本週間の目玉行事として私の企画展を催行する事が決まり、同時に、2018年3月がサラマンカ大学の創立800年にあたるため、その関連行事に認定された。これが私とSalamancaとの出会いである。

2018年3月 題名のこだわり

スペインの展示会の題名は「¿YO SOY?」(「私は誰」)に決まった。反対から書くと「¿YOS OY?」となり、右からでも同じスペルである。題名を見ただけで、左右対称であることを来廊者に想像させるために私が考えた題名である。日西文化センターの窓口の人からは、「スペイン人全員がこれはスペイン語文法にかなっていないから、正しいスペイン語に変更しなさい」と言われたとして、命令口調で変更するように諭された。しかし題名は現代美術の場合には、作品の一部でしかも重要な部分で有ると考え、友人のスペイン人(サラマンカ大学哲学部の元教授)の承認も得たので変えなかった。日西文化センターの展示会ではPalíndromo(右からでも左からでもスペルが同じ文章)という単語を説明書の中には記載せず、口頭で来場者に題名の意味するところを説明していた。翌年の「貝の家」での企画展では、主催者側が、私の説明書の書き出し部分の¿YO SOY?に続けて¿YOS OY?と書いて、さらにPalíndromoという単語を挿入してくれた。それによって、題名が左右対称、即ち展示作品が左右対称と言うことを顕示することとなった。インパクトのある題名は、入り口で多くのスペイン人の注意を引き、自分が題名にこだわった事がやっと関係者に理解してもらえた。

2018年4月 「貝の家」(La Casa de Las Conchas)との出会い

スペインのサラマンカ(マドリッドの西220km)で2018年に続いて2回目の個展が開催された場所は、州立図書館、別名「貝の家」(La Casa de las Conchas)に併設の2階の回廊で、自然の風雨が入るギャラリーであった。16世紀に建設の巡礼者を守る騎士の館であった中庭のある建物は、外壁に300以上のホタテ貝(Concha)の装飾があり、入り口のドアにも貝の装飾がある。中庭から回廊を見上げると、ギリシャのエンタシスのあるイオニア式の柱が見える。階段を上ると、2階の回廊からは、目の前にポンティフィシオ大学の大聖堂が聳えているのが見える。Salamancaは、歴史的には、2000年前にローマ橋が建設され、3世紀に既に小ローマとして栄え、さらに12世紀に建設のロマネ数様式の大聖堂、1218年に開学のサラマンカ大学があって、南北に走る「銀の道」の宿場町としても発展していた。

この「貝の家」は、マヨール広場と共に、サラマンカ市民の憩いの場所となっている。日西文化センターでの展示期間中に、Salamancaの街と人々が大好きになった。毎日展示場が閉館になると、街のバールでワインとおつまみを本屋のManuel君と一緒に楽しんだ。過去の展示会で実施していたように、私の作品の前で来廊者の写真を撮り、それをその次の展示会で作品にしてレピーターに見て頂くというこれまでのプロジェクトを意識して、「貝の家」(現在は州立図書館)の職員達が偶々来廊した時に、プロジェクトの内容を説明して写真を撮らせて頂いた。翌年(2019年)にSalamancaの「貝の家」のギャラリ-で展示会を催行したい希望を伝えた。展示会が実現することを想定して、大型の作品をManuel君の本屋の倉庫に置かせてもらって、Salamancaを2018年4月末に発って日本に帰国した。

2019年6月4日~6月30日 「貝の家」での展示

企画書が承認されたのは2019年1月。実施は5月終わりから6月末で詳細は追って連絡すると。具体的な詳細が伝えられたのは、私がSalamancaに到着した5月26日から1週間後で、しかも州主催の催事が5月末にあるので、展示は6月4日からとなった。


前日にSalamanca在住の日本人の友人に手伝ってもらい、どうにか展示を終えることができた。しかし、展示開始日の翌日はSalamanca地方に暴風雨が来るという天気予報で、夕方からギャラリーへも強い風が吹き込み、作品は空中に舞い上がっていた。主催者側からは、作品すべてを透明なビニールで覆ったらとのアドバイスがあったが、作品を丁寧にピン止めして、どうにか急場をしのいだ。作品の一部の写真は、風で空中に飛んで、屋根にかかってしまったので、そのままの状態で展示した。空が見える回廊のギャラリーは、野鳩にとっては格好の寝場所となり、毎日床に落ちた糞を作品から取り除いて掃除するのが日課となった。会期中の来廊者数は約17500人であった。

2020年2月 コラージュ作品「迷路」の完成

Salamancaで撮影した写真を素材にして、次の展示会をまたSalamancaで開催したいと思って、構想を練っていた頃、コロナの影響で、予定された展示会すべてがキャンセルとなり、出口なしの閉塞感を味わった。そんな頃にヒトの写真を使って表現した作品が「迷路」である。「私は誰」¿YO SOY?という「貝の家」の展示会のテーマに沿った作品とも言える。この作品は、2020年9月に市ヶ谷駅のプロムナードギャラリーで展示され、さらに、10月の横浜みなとみらいホールの個展でも展示された。コロナ渦下での展示会には472名の来廊者があった。今回は、レピーターは40名、新規参加者は16名。来廊者に声を掛けて話をすると、2018年にスペインのSalamancaで展示をしたサラマンカ大学付属日西文化センターで3ヶ月間スペイン語を勉強したことがある女性や、サラマンカ大学卒業の鎌倉に住むスペイン人の人もいて、サラマンカと展示会との縁を感じた。

2020年10月17日(土)マリンバ演奏とのコラボレーション

横浜みなとみらいギャラリーでの展示会期中にマリンバ奏者のY岡氏、S浜氏のお二人に会場でのマリンバ演奏をお願いした。曲目は「岩橋格 Mandala」という私の作品を見てイメージしたY岡氏の作曲で、10分以上の聴き応えのある曲であった。ギャラリー内のイス席のみならず、通路にも人が立って演奏を聴いてくださり、無事に「岩橋格のMANDALA」という曲もお披露目ができた。高い天井と風通しの良い会場のおかげで、コロナ対策も万全であった。

2020年11月7日 73才 岩橋 格