~父不在の中、母と妹を支えた幼少期~

東京生まれでしたが、戦争中だったのでいったん疎開しまして、終戦後に帰ってきたら何もなかったという状況でした。父親は戦争に行っていたため5歳くらいまで帰ってこなかったので、私は母親に育てられたのですが、それがよかったのか、自分で仕事をなんでもやれたというのが私の人生のスタートポイントですね。また、母親は耳が聞こえなかったため、私は幼いころから様々な点でサポート役をしていました。そのような日々の中で母と妹と共に過ごした幼少期でした。

 

~小学生時代~

白金小学校に通っていたころの印象的な思い出として、「24の瞳」という映画の撮影班が来たという出来事が挙げられます。小学生時代の幼い私は、映画の撮影というものを初めて見たことが楽しくて、「将来は映画俳優になろう」と幼心に思った記憶があります(笑)。もっとも実際は経営者になったので、映画俳優にはならなかったのですけれどね(笑)。

 

~青山学院で過ごした中学・高校・大学時代~

中学から大学までずっと青山学院に通い、仕事と併用で2012年以降青山学院大学経営学部の講師になったので、青山学院での生活が長く続くことになりましたね。

 

~ラグビーに没頭した青春~

中等部・高等部ではずっとラグビーをやっていました。

東京都の全国高校大会の決勝まで行ったのですが、卒業旅行にも行かなかったくらいに没頭していましたね。今みたいな優しいラグビーではなく、まぁ乱暴でね(笑)

男らしい、ある種 乱暴な面もありながら、一方で紳士的なジェントルな面もあるスポーツです。スポーツは、これからの時代の経営者が持たなければならない非・認知能力の要素だともいえます。

“オールインワン”、すなわち、常に皆が一つのチームになること。尊敬されるような人間であること。一つの試合が終わったら常に次のチャレンジに臨むこと。

こういったラグビーにおいて求められることは、経営者哲学にもつながるのです。

そしてそれらは、すべてが強いメンタルで自己肯定感に繋がります。

これからの時代、医学がどんどん進歩し、ガンや脳卒中など、いま人類を苦しめている病気が治る世界になっていきます。そうなった世界で、いかに健康で人に迷惑をかけず、自己の主張に責任を持つ、そういう持続的な人生を皆に送ってもらいたいと思っています。

 

~世界中を巡り、世界を知る日々~

これまでの半生を振り返ると、私は世界中をさまざまに巡ってきました。

最初に入った赤井電機という会社が、とても自由な社風で、「何でもいいからナンバーワンになれ」というモットーだったために、転勤や出張で行きたいところに赴くことができました。アジア、北米、中米、南米、ヨーロッパ、オセアニア、中近東、、、、、実に世界中を巡りました。当時は、日本は戦争に負けた直後で後進国でした。戦時中は英語を話してはいけないという時代でしたので、日本の街中には英語の表示もないし、英語を話せる人もあまりいない、英語の教材もない、今のようにパソコンもコピーもない時代に、世界中のあらゆる地に飛び立ったのです。英語は、相手に自分で書いて出すと添削して返事をしてくれて、徐々に覚えたのです。

北極で、55年前、現在は人が余り住んでいないThule という世界の航空路の米軍基地に米軍機で行ったり、オーストラリアにおいては世界中の潜水艦が立ち寄る西海岸のRear Mouth という砂漠の町でサソリと一緒にゴルフをしたり、そういう普通の人は経験できないことを様々に経験させてもらいました。

今の若い人は、遠くに行きたがらない傾向にあると思います。「自分の家庭を守る」「楽しい家族」、そういうことばかりを考える人が増えました。もちろんそれもウェルビーイングとして大切なことですが、親の世代が作ってくれた世界をそのままエンジョイするだけ、という姿勢を正していかないと、戦後にエクスポネンシャルに上昇していた日本が、今度はエクスポネンシャルに後退していくおそれがあります。現実の日本のリーダーシップは30年遅れています。

(※エクスポネンシャル…「指数関数的に」。指数関数におけるグラフの軌跡が急カーブを描くことから転じて、飛躍的な向上・発展などの例え。)

 

~赤井電機退職後、様々なビジネスを手掛ける~

23歳から38歳まで在籍した赤井電機を退職後、世界初の薄型プラズマディスプレイの会社を作って欲しいというVCからの要望を受け、4~5人の仲間とスピンオフの形で起業をしまして、当時のお金で80億円の資金調達を行い、数名から初めて4年間で400名ほどの会社にしました。

国の銀行も資金を提供してくれるなどしてプラズマディスプレイを開発することはできたのですが、半導体などの部品性能の遅れが要因で、製造当初は美しかったディスプレイが2~3日を経過すると色が変わってきてしまうといった問題が起こり、それらが要因となって最終的にその会社は畳むに至りました。45年前です。

「開発されても商品にはならない」、ということを経験したわけです。

製造の世界は、アイデアがあって、サンプルができ、製造ができて、生産ができ、生産管理までできないと、「製品」は「商品」になりません。

同様のことは、現在の日本でも見られます。すなわち、優秀な人材によって良い製品が開発されるけれども、うまく商品として展開できない、という大学との産学共同事例です。

その会社のあとは、オファーを受けてIT・コンサルの会社に入ったり、東南アジアに住んでみたり、とある会社の役員を務めたりと、さまざまなビジネスを精力的に手がけました。

定年退職後の60代頃からは、ある会社の海外本社に招聘され、海外に移住して株式発行からIPOまで行ったということもありました。その後も、とある海外企業の日本支社の社長をやって欲しいとオファーを受けてその社長を務め、その後また別の会社を大きくするために尽力するといったことを経て、2004年に起業してエグゼクティブ・コーチングに従事し、現在に至ります。

 

~母校でもある青山学院大学で教鞭をとった日々~

青山学院大学において、60代半ばころから7年間、経営学部でエグゼクティブ・コーチング・キャリア開発を教えました。大学を出たら自分で起業をするのだという教えです。

今の若い人たちは、細かい知識を知る必要は必ずしもありません。それは専門家に任せるという選択肢もあります。そうではなく、大きな夢を持つ、ブレイクスルーして、誰もやったことがないことを考えて欲しい。それこそ「思考力」、今一番必要なことです。

コンサルとは、過去の良いところを集めてフレームを作ることです。その結果、何をしたらどのような結果になるかがわかるようになります。そのためにコンサルはある。

一方で、コーチングは未来への目的地に連れて行くものです。

これが、コンサルとコーチングの違いです。

あなたもしらない、私も知らない、誰も知らないゴールを作ってもらいたい。

そのような未来に導くことがコーチングです。

すべての人間は、本来、社会があり、国家があり、その中に自分があるものですが、家族や会社や地域といった狭い世界のことしか考えなくなり、小さく、狭くなってしまう。

こういう風にシュリンクしてしまった心を、オープンにして、挑戦していかなければならない。新しいことを考えなければならない。こういうきっかけを、もたらしていきたいと考えています。

 

~コロナ禍、哲学的に考えることの重要性が増す~

「アリストテレス」だとか「形而上学」だとか、そういったことを学校などで習ったときは、右から左に流れて行ってしまいましたが、コロナが始まって「人生とは」、「いかに生きるか」、そういったことを哲学的に考える時間ができたという人が増えたと思います。

その結果、脳によって考える力・思考する力というものの重要性がより一層 増しています。

これまでの日本は、知識偏重による弊害によって発展が滞り、大学も国もそれに気が付いているためにさまざまな取り組みをしているものの、現実には奏功していない…そういう現状があるように見受けられます。

 

~停滞した国に必要なもの。人々に「分福(ぶんふく)」を~

日本には人材がいない。その結果、日本の成長は停滞しています。

自分たちの頭で考えず、単なる情報収集をしているだけ、という人が増えました。

その結果、日本という国は、コアの部分ではとても良いものをもっているけれども、それらの良いものが次々とアウトバーンドしてしまっています。

AIの進歩によってシンギュラリティの一部はすでに世界に到来しており、グラフィック分析やビックデータなどをはじめとして、人間よりAIの方が効率的というものが散見されています。そのような世の中にあって、日本は停滞してどんどん遅れて行ってしまう。

では、どうするか?

本来、日本人は頭がいいのです。プランニング、コンセプト、ゴール設定などができる。

しかし、その間を埋める、ということをやってきておらず、そのことを国もわかっている。ゴールまで導いてくれる、いわば馬車の伴走者がいない。そのような存在を育成できないと、日本は単なる引きこもりの箱になってしまう。

土の中で生きている蟻。鎖につながれた象。あるいは、中には良いワインが入っているのに、そこに置いてあるだけのワインボトル…。瓶詰のワインこそが日本の経営者なのです。

ボトルの外にいる人には、生産年や産地などそのワインのことがわかるが、中にいる人には見えない。であれば、そのボトルを早く割ってしまおう、あるいは飲んじゃおう!というのが、私の意見(笑)。ただ、味がわからない人が飲んでも意味がない。だから、みんなに分け与えよう。

すなわち「分福(ぶんふく)」が必要です。「至福」や「幸福」を知っている人はいるが、「分福」を知っている人はあまりいない。分福をできる人になる、そういう人が増える、それが日本の成長に必要なことなのです。

 

~若い人に伝えたいこと~

日本の若いリーダーを育てたいという理念のもと、エグゼクティブ・コーチングなどをはじめとした活動をしています。「ステイヤング」、すなわち、いつまでも若くいたいというモットーで120歳まで生きて、100歳まで仕事を続けたいと思っています。

「障壁」に向かっていき、それを破ろうとすること、すなわち「チャレンジ」が大切です。

「受け身」ではなく、自らチャレンジする姿勢だと、チャンスはいくらでもあります。

これからの若い人達には、ユニバーサルな視点を持ち、アンビシャス(夢)を持っていただきたいと思います。若者達に伝えたいのは、過去はいいから、未来を創造して飛び立って欲しい、ということ。そのような発信を今後も継続していきます。

そういう世の中にしていきたいというのが、私の考えです。

 

~人生100年時代、日本のシニアに伝えたいこと~

医療の進歩でさまざまな病気が治るようになり、多くの方々が100歳以上まで生きる世の中になります。皆がその人生において世紀をまたぐ、センテナリアンになる世の中が到来するのです。しかしセンテナリアンの生き方を教えてくれる人は、まだあまり世の中にいません。“センテナリアンの生き方はいかにあるべきか”、ということを、ご自分でお考えになっていただきたい。

そのためには、「考え方」そのものから、まず考えなければなりません。

これからの日本のシニアの方々には、ぜひこういったことをお伝えしていきたいと思っています。

東京都文京区本郷の弥生美術館にて、「田村セツコ展 85 歳、少女を描き続ける永遠の少女」と題した田村セツコ先生の個展が開催され、盛況のうちにその会期を終えました。 我が国の女性イラストレーターの草分け的存在であり、80 代の今なお人気を誇る田村セツコ先生に、お話を伺いました。

昭和 13 年、東京都目黒区にて 4 人きょうだいの長女として生まれたセツコ先生。 1956 年のデビュー以来、「カワイイの体現者」として熱狂的な人気を博しています。 作品のみならず、ご本人もいつもはつらつとして、かわいらしくおちゃめ。 今回は弥生美術館の個展にて行われた貴重なインタビューの様子をお届けいたします。

セツコ先生のこれまでの軌跡を振り返る1階展示スペース


まず弥生美術館の 1 階は、「過去のセツコ先生」を振り返る展示スペース。 代表的作品をはじめとしたイラストの数々や、一世を風靡した「セツコグッズ」など、65 年間の軌跡をたっぷりと味わえる空間でした。

猪熊弦一郎先生に師事。「絵は基本が大切」と教わった日々。

―――――絵はどのように勉強されたのですか?

セツコ先生:
最初は猪熊弦一郎先生の研究所に通って、「絵は基本が大切」ということで、デッサンなどを行っていたのですが、ヌードモデルの方がいらっしゃるのに、なんだか気恥ずかしくて、首から上ばかり描いていたら、注意されたのですよ。
「せっかくモデルさんがいらっしゃるのにもったいない。」と。それで、ヌードモデルの方の全身を描いたのですが、とても緊張していました。リアルな絵とデフォルメされたイラストは一見 違うようにも見えますが、イラストを描く際にも、身体の造りなどヌードクロッキーを描いた経験を思い出して、とても参考になりました。

リアルな写実画デッサンで学んだことを、少女雑誌のイラストへ。そのアレンジには苦労しました。

―――――学生時代に絵の勉強をしてらっしゃらなかったのに、こんなに描けるようになるのはすごいですね。はじめはどのような苦労がありましたか?

セツコ先生:
学生時代には絵の勉強はしていませんでしたが、女の子はみんな、「お姫様」の絵を描いたり、当たり前にお絵かきをしていましたよね。
リアルなクロッキーの絵を学んだ後、少女雑誌で求められるイラストに変えていくため、デフォルメするのが難しくて苦労しました。例えば頭を大きくして等身を変えたり、目を大きくして顔のパーツの比重を変えたり、とかですね。少女漫画家の先生方って、キャラクターの目を大きく描きますよね。お顔の半分が目だったり。なので私も負けずに目を大きく描いて、「びっくりまなこ」にしていました。

―――――キャラクターの目を「『の』の字」のようにするデザインを思いついたきっかけは?

セツコ先生:
松本かつぢ先生の絵が好きで、かつぢ先生にお手紙を書いて弟子にしてもらいました。師事した当初は、かつぢ先生の絵に似せて真似して描いていたのですが、いつまでもそれではいけないということで、試行錯誤してアレンジをしていきました。とにかくたくさん、暇さえあれば描いてるうちに、「『の』の字」みたいな目のデザインにたどり着いたのです。

当時の作品。試行錯誤してたどり着いた「『の』の字」の瞳の少女たち。

―――――イラストの世界観は夢いっぱいですが、締切はいきなり現実的ですよね(笑)

セツコ先生:
本当にそうなのです。イラストはふわっとしたファンタジーの世界のように見えますが、現場はハードボイルドなんです(笑)
仕事の依頼がなかった頃の記憶がありますから、オファーは基本的には断ることはできませんでした。しかし締切の交渉をしなければならないときもあります。締切を伸ばしていただくのは勇気がいるけれど、「本当に、この、この日だと無理なんですけど、なんとかなりませんか?」と汗をかきながらお伝えして。すると発注してくださった方も慣れていて「先生、そこをなんとか!」とおっしゃる(笑)
最終的には、お話をして、お互い歩み寄って決めていましたね。

額に汗する当時のご様子をジェスチャーでお見せくださったセツコ先生。エピソードの切迫感とは裏腹に、そのしぐさはとてもチャーミングでした。

ライフワークのひとつ、ポプラ社の絵本の挿絵シリーズ

―――――名作童話に関しては、すでにいろいろな方々が挿絵を描いていたと思いますが、あくまでもご自身のイメージを膨らませてイラストをお描きになったのでしょうか?

セツコ先生:
鋭いご質問です。イラストを手掛けた童話の多くは海外の物語でしたから、リアルな、かっこいい系統のイラストが多かったような気もしますが、自分の中で少女物風にアレンジしたかもしれません。
不思議の国のアリスなんかは、「怖さ」もあるストーリーですから、読者の方々に怖がられすぎないようにアレンジしたかなと思いますね。

―――――たくさんの作品がある中で、特に印象に残る作品は?

セツコ先生:
全部ですが、やはり苦労した作品でしょうか。例えば、こちらのハイジが階段を登っているイラストは苦労した記憶があります。というのも、このシーンは、ハイジが自然に溢れるアルプスの山を離れて、都会暮らしをした結果、夢遊病になってしまう場面なんです。
普段はハッピーなイラストを描いていますから、心理的な不安などはあまり描いたことがなくて。インスピレーションを求めて、図書館で名画や海外の絵本を見たりなんかしてね。

セツコ先生が描いた「アルプスの少女ハイジ」の挿絵。アニメなどで知られる元気いっぱいのハイジのイメージとは異なり、都会暮らしのストレスで病気になった様子が、やや前傾した立ち姿とブルーの色遣いで表現されている。

恥ずかしいと思っていた過去の作品を愛してくれる人の言葉—「不要な向上心」

セツコ先生:
私が「昔の絵はデッサンも下手だし、恥ずかしくて、見てたらこう、描き直したくなっちゃう」と言ったんです。
すると、ある人が「その絵が好きだった当時の私はどうなるのですか?」とおっしゃって、私は「あ!それは気が付かなかった」と。すごい名言よね。
「堂々とした達者な絵なんか、女の子たちが見たいでしょうか?」とおっしゃる方もいて。
自分としては、「もっと良くしよう」、「もっともっと」と、その意欲が正しいと思って描いていくのだけれど、
それは「不要な向上心」なのだと気付かされたんです。
私が自分では最も恥ずかしいと思っている昔の作品のキャラクターを、とても愛しいと思 ってくださっている方々がいる。ついつい「恥ずかしいから見ないで」とか言っちゃうけど、それは好いてくださってる方々に失礼なのよね。

「現在のセツコ先生」をテーマにした2階展示スペース

大正ロマンを感じさせるレトロな雰囲気の階段を登ると、2 階は「現在のセツコ先生」を表現した展示スペース。 イラストのみならず人形など立体作品も展示され、セツコ先生ならではの世界観に存分に浸ることができる空間でした。

コラージュ人形のスカートを手に取りながら、「1 階はカワイイ女の子、階段を登ってきたら、2 階は白髪のおばあさん、あらま、びっくり」と語るセツコ先生

才能は誰にでもある、自分で気づいていないだけ。

―――――コラージュ作品を作るのは、ちょっと難しそうにも見えますね。

セツコ先生:
どこにでもある材料とボンド糊があれば、ぜんぜん難しくない、簡単に作れるのよ。
私の教室にも、最初は「絵が苦手で」とおっしゃっていたにも関わらず、いまや個性を発揮した作品をバリバリ制作している方がいらっしゃって、すごいの。

「ここに展示されているのは書き損じや下絵、普通は捨てちゃうものだけれど、実は人気なのよ。」と語るセツコ先生。

旅先の海外で集めた“かけら”の数々

―――――このガラスケースの中の品々は何ですか?

セツコ先生:
これは各地を旅行したときの“かけら”です。将来は旅先の記憶を辿った絵本を描きたいの。 パリやなんかのリアルな都市ではなく、おばあさんの想像を交えた、海外の体験記を。とても楽しみなの。
移動するのが好きなのよ。電車に乗って窓から景色が見えるとすごくいい気分。
目や耳に入ってくる情報をシャワーのように浴びているの。

2 階中央のガラスケースの中には、セツコ先生が海外を旅行した際に集めたものが展示されています。

レトロな風情の漂う館内カフェ「夢二カフェ港や」に場所を移して、セツコ先生の魅力にさらに迫ります。
桜を臨む2階席の一角は、大正ロマンの店内の雰囲気とあいまって、セツコ先生のかわいらしい佇まいを可憐に彩ります。

絵を描き始める瞬間は、19 歳の頃から変わらず、どきどきしています。


―――――65 年以上描いてらっしゃって、絵を描くということが「生きる」ということと同じくらい長く続いてらっしゃると思います。絵を描き始めた最初の頃と、現在と、紙に向かうときの気持ちは変わっていらっしゃいますか?

セツコ先生:
あまり変わっていないですね。いまだに毎回、用紙を用意して、鉛筆を握ったときは、19 歳のときと同じように、「初めまして」「えぇ、どうしよう」という気持ちで、絵を描き始める瞬間の感じ方は、ずっと変わらないですね。

紙があって、筆や絵の具があって、描けることがとても幸せ。


―――――何年 経っても新鮮な気持ちで、新鮮な感動を与えられる絵を描き続ける秘訣はありますか?

セツコ先生:
まずひとつは、私は特に美術学校とかは出ていないので、いつも新米とか新人という気持ちが抜けないから、新鮮な気持ちが保ち続けられるのかもしれませんね。
もうひとつは、目が見えて、手が動いて、鉛筆を持てることが嬉しい、という気持ちが基本にあります。紙があって、筆があって、絵の具があれば、最低限それがすごくラッキー。それらが使える、それが仕事だということがすごくありがたい。描いているときは 19,20歳と同じ気分で描いていて、それがどういう評価をされるかとか展覧会で絵が売れたりとか、そういうことのために描いているのとは少し違うの。 ある絵描きさんで、経済的には成功し、モデルのような美しい妻を得た方もいらっしゃるのですが、自宅でサロンを開いたりパーティを開いたり、いろいろと忙しくなって、絵を描く時間がとれなくなったみたい。勝手な想像ですが、それはもしかしたら幸せではないのかもしれない、とも思います。絵が上手になって有名になって人気があって展覧会で絵がバンバン売れてお金持ちになって、幸せになった、という人は、一人もいません。周りを見渡して、それらがすべて叶った人は、一人もいないようなの。

―――――今回の個展の 3 か月間で、新たな発見や印象的な出来事などありましたか?

セツコ先生:
思いがけない出会い、皆様とお会いできること、生身のお客様と接することが本当に嬉しく、原点に返ることができます。この仕事を始めた頃の心細い気持ちを抱いていた自分に、「よかったね」と伝えてあげたい。
遠方からお越しくださった方が涙を浮かべてくださったり、細かいことを話さなくても、全然知らない人と自然とハグしたり、そういう出会いがいっぱいあって。
貴重な体験をさせていただいたと思います。

―――――例えば何らかの理由で、今のようには絵が描けなくなるなるようなことになったら自分は何をするだろうと考えたことはありますか?


セツコ先生:
私はなんでもできるというわけではなくて、自分の原点は絵を描いたり、立体を制作したりすることが好きなの。ですから、動けなくなったり寝たきりになったりしたら、かごにいろんな道具を入れて、「寝たきりになったときに描く絵本」というものを描く。“ベットサイド・パラダイス”ですね。旅行記もそうですが、毎日毎日降り注ぐものを片っ端から描いていく。 「誰かを元気づける」とかそういう意識をもって描くのではなく、自然に描いた結果、例えば同じように寝たきりの境遇にある方が見てくださって、「私と似ているな」と感じてくださったりだとか。そういうのもいいなぁと思いますね。

びっくりすることばっかりのおばあさんの日常は、さながら「不思議の国のアリス」

―――――何が起こるかわからない未来、不安になったり逃げ腰になる人も多く、セツコ先生のように何が起きても自然体で素直に捉えて生きるにはどうしたらいいでしょうか?

セツコ先生:
今年の 2 月に新しく出版した「85 歳のひとり暮らし ─ ありあわせがたのしい工夫生活」にも書いているのですが、おばあさんになったら、転んだり、白内障で世界の見え方が変わ ったり、詐欺師に騙されたり、一寸先は何が起こるかわからない日常。まさに「不思議の国のアリスじゃん!」と。
「不思議の国のアリス」は、次々に唐突にいろいろなことが起こるから、昔はそのエネルギ ーについていけないなと感じていました。でも歳をとってみたら、世界的な有名作品になるのがよくわかる、と思うようになったのです。
そこで「白髪の国のアリス」と銘打って、おばあさんの冒険の日々を表現することを始めたんです。
人間にとっておばあさんになることは初めての経験だから、いわば冒険なのだけれど、おばあさんになったら次は「死」が初めての経験。死の国に行ったら、どうなるのかわからない、死んでいるのか生きているのかもわからなくて、「なにこの世界」と。でも、それも冒険。 それを楽しみにしたいけれど、でもそのときに自分はもういないのかもしれないですね。

「おばあさんにとって、次なる初体験は『死の世界』」という前向きな死の解釈についても述べられた、セツコ先生の新刊「85 歳のひとり暮らし ─ ありあわせがたのしい工夫生活」(興陽館 より 2023/2/15 刊行)

―――――最後にみなさんにメッセージを。

セツコ先生:
人間という面白い珍しい動物に生まれたことに感謝して、ぜひエンジョイしてくださいね。 人間っておもしろいから。

~田村セツコ先生直筆サイン入り書籍プレゼントキャンペーン実施中~

【応募方法】
応募フォームに、本ページの感想文、ならびに必要事項をご記載の上、ご応募ください。
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【応募要項】
◆応募期間:2023年5月31日23:59まで
◆形式:自由な形式。文字サイズ・フォント等も自由です。(※文字のみを使用し、画像、動画等は使用しないでください。)
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◆当選者の発表:当選結果はプレゼントの発送をもってかえさせていただきます。
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たくさんのご応募お待ちしております!

生い立ち~幼少期から小学生時代~

僕は昭和34年に愛媛県宇和島市に生まれ、公務員の両親のもとに育ち、子どもの頃はお調子者でおしゃべりが好きな性格でした。

母が市立図書館に勤めていたこともあり、小さかった頃は、子ども達の遊び場になっていた図書館の園庭に集まって、近所の子ども達と一緒に遊んでいた記憶があります。

僕が子どもの頃は地域のコミュニティや子ども達の縦社会のようなものがまだ残っていて、近所のお兄ちゃん達が年少の子ども達を集めて、ビー玉だとかめんこだとか、冬だとコマ遊びとか、そういう遊びをやっていました。高学年になるとそういう遊びから卒業して、僕の場合はプラモデルを作ったりしていて、もの作るのが好きな子どもだったと思います。

子煩悩な父に連れられて、海が近かったことから魚釣りに行ったり、当時 石ブームだったこともあり石を採取しに山登りに行ったりなど、父によく遊んでもらっていた記憶があります。父は非常に優しい人柄で、あまり叱られた記憶などもないですね。

中学時代~ロックとの出会い~

僕にとって中学時代の最大の出会いは、なんといっても“音楽との出会い”です。

物心ついたころから自宅には蓄音器があり、小学校の音楽の時間にベートーベンやチャイコフスキーに魅力を感じてレコードを買ってもらったりなど、音楽好きの素養はもととありましたが、中学に入ってロックと出会ったことが非常に大きかったですね。

当時、フランシス・レイなどの映画音楽が一般的によく聴かれており、そういったものが洋楽に入る入り口だったという人々が多いようでした。僕自身も、洋楽的なリズムとかメロディーとかそういったものを好んでいましたね。

僕が、中一の時に最初に良いなと思ったのはベンチャーズで、ほどなくしてビートルズに出会いました。ビートルズが来日した際、僕はまだ小学生だったのであまり記憶には残っていないのですが、僕が中学に上がった頃がちょうどビートルズが解散して各メンバーがそれぞれソロ活動を始めていたようなタイミングでした。ビートルズの新しい曲から古い曲で遡って聴き始め、そこからローリング・ストーンズやボブ・ディランなどに幅を広げていったように思います。

“ロック少年”だった青春

中学の頃からギターを弾いており、中学に上がってはじめてバンドを組み、ますますロックにのめりこみました。ギター2本にベースとドラムスで構成された、いわゆる4ピースバンドを組み、バンドメンバーと情報交換などをし始めまして、仲間達と協力し合いながらレコードを集め始めたのです。子どものころ、お小遣いが2000円で、レコード一枚がちょうど2000円前後だったので、月に1枚のレコードを買うことが当時の最大の生きがいといっても過言ではありませんでした。今月は何を買うか、来月は何を買うか、「友だちが持っているレコードは貸し借りができるので、別の曲を買おう」とか、そういう相談をしていました。今の若者達のようにスマホから多数の情報を摂取するという時代でもなかったので、そういう友人たちとの情報交換とかやりとりがより一層 濃いものになったと思いますね。

当時のバンドメンバーの一人は未だに一番親しい友人で、今も交流がありますが、彼は現在音楽評論家の職についています。お互いに結婚するなどして一時的に疎遠になったときもあるのですが、これまでずっと共に音楽を追いかけてきた仲間であり、同じような音楽を愛好してきて、同じようなことを考えたり感じたりしながら生きてきたのだなと実感しています。今でも音楽について語り合うと一瞬で青春時代に戻ることができ、すぐに距離感がゼロになるのです。

いま振り返る青春時代、昔の仲間、そして音楽

僕の場合は音楽というものが、自分の人生の節目節目を呼び起こしてくれます。

自分のFacebookで「生涯の5枚」という楽曲を紹介しているのですよ。

ときどき入れ替わるんですけれども、とはいってもこの歳になるとね、青春時代に好きだったバンドの音楽はずっと追いかけています。

クラシック音楽でいうモーツアルトみたいなね、人生のどの時点にあっても、入口になるようなものですね。

ロックを聴き始めたときに感じた新鮮さや胸のときめきといった感情は、初恋や、誰かを好きになったときの感情に共通しているように思いますね。世界が広がるような感覚といいましょうか。現在に至るまで、小説執筆にあたっての一番根元にあるのはそういう情動を掘り進んだり表現したり、小学校の頃から現在に至るまでに出会った人であったり友人であったり音楽であったり、創作の出発点は、その頃から始まっているように思いますね。

夢中になってロックを聞いていたこと、これが中学高校を通して一番大きな体験だったといえます。

青春のころ~受験生時代~

ロックは好きでしたけれども、音楽で身を立てようとまでは考えてはいませんでした。公務員家庭に生まれて両親も堅実な人物だったこともあり、冒険のような人生設計ではなく、普通に結婚して家庭を作って、その中でできるだけ自分のやりたいことをやっていこうというシナリオを描いていたのですよ。なので中学高校の頃は割とよく勉強をしていて、成績も素行もよく、特に数学など理系分野が得意で、土木や建築に興味があったため第一志望は工学部でした。そして、僕の場合、進路を考えるにあたっても音楽の話が関わってきます。

僕が好きだったザ・バンドは、大地に密着した生活をしながらそういう匂いのする音楽を作っていました。またボブ・ディランも60年代にバイク事故を起こし隠遁生活のような暮らしぶりだった時期があり、昼間は農業や小屋の修理などをしながら夜は音楽に取り組んで作品を生み出すといった生活をしていて、彼らの生き方に非常に憧れていました。

ザ・バンドのアルバムのジャケットに、農場の小屋のような場所でメンバーとその家族の集合写真のようなものがあるのですが、それを見たときにパッと、「これだ!」と感じ、自然的な素朴な生き方の一つの象徴のように思ったものです。

進路や受験を考える時期にもそういった憧れを踏まえて検討した結果、工学部より自然を相手に生きるような仕事に就きたいと思い、農学部という選択肢が浮かんできました。幸い理系だったので受験科目はさほど変えずに工学部から農学部に変更することができました。 その方向で自分の学力と照らし合わせて、浪人せずに安全に合格できるところがよいというのもあり、九州大学農学部という選択になったのです。九大に入った当初は農業をしようと思っていたのですよ。

大学生時代

大学に入り、阿蘇など自然の残っているところで植物採集に取り組むなどしていると、自分はサラリーマンには向いてないな、アカデミズムの世界で生きたいなと思いはじめ、研究者になろうかなと考えました。最初は農学関係に進み、植物学や生物学などで研究者になろうと思っていたのですが、大学の一般教養を通して、国文学などの人文科学系や、経済学などの社会科学系の分野に接するうちに、そちらに興味が湧き始めました。農学部の中には農業経済学という専攻があり、そちらに進めば経済学の本を読むことができるなと思ったので、それを専攻し、まずはマルクス経済学を読み始めました。

大学時代に学んだマルクス

マルクスは面白い人で、もともとは哲学者だったのです。マルクスから始まり、ヘーゲルなどの現象学の研究者、ヘーゲル周辺の現象学の研究者であるメルロ=ポンティやフッサール、それらから影響を受けたハイデガー、ハイデガーに影響を受けたニーチェ・・・といった具合に、どんどん広がっていきました。

大学の研究者を志していたために大学院に進学したのですが、その頃は、フランス現代思想などがどんどん輸入されていた時期でした。戦後に登場したミッシェル・フーコーやジル・ドゥルーズ、ロラン・バルトなどが翻訳され盛んに紹介されるようになり、その頃の僕もそういう本を読むようになるわけです。すると、指導教授の行っている研究、例えば18世紀や19世紀のイギリスの農業形態を今更研究してどうなるのかと、つまらないものに思えてきて、自分の興味対象からはずれてしまったのです。むしろフーコーが問題提起するように「人間とはどういうものなのか」「人間はどう考えるか」という、僕がいまだに考えている一番大きな課題に、大学院生の22歳の頃に出会ってしまい、農業研究論文が書けなくなりました。当時の指導教授からは「(農業経済科に在籍しながら)フランス現代思想なんて、何をやっているんだ。面倒をみきれない」といったことを言われるわけです。当時僕も若かったので「面倒みてもらうつもりもないよ、僕は勝手にやるから」といったことを言っていましたが、それでも大学院に籍を置かせてもらえていたわけなので良い先生方でした。研究室や図書館などの施設や、コピー機などの設備を使わせてもらいながら、自分なりの研究活動を進めていたものの、アカデミズムの世界に自分の居場所がないことがはっきりしたともいえます。しかしどうしても書くこと読むことが好きだったため、何か書くことで仕事をしたいと考えました。そこで、当時社会的に認知され始めていた「批評」、それもいわゆる文芸評論ではなくもう少し広い意味での批評を行うことを考えました。それともう一つ、小説を書いてみようと。批評か小説家のどちらかで世に出たいと考えたのです。

 周囲に文学をやっている仲間もおらず、それまで誰にも読んでみてもらったことがなかったものの、そういった経緯で小説を応募してみようと思ったわけです。

家族に支えられながらの小説の執筆

今の妻と結婚し、子どもが生まれた時期に小説を書き始めました。自分の作品のレベルを知りたくなり、文芸春秋が出している「文学界」という雑誌の新人賞に原稿を送ってみたのです。最初に送った原稿が最終選考まで残り、その旨を知らせるハガキを受け取ったときが、小説を書いていて一番嬉しかったかもしれませんね。本選では入賞しませんでしたが、これはもう少し頑張れば、なんとかなるかもしれないと思い、せっせと書いて送り続けました。

文学界の新人賞を受賞

1年後か2年後、26、7歳の頃に文学界の新人賞をもらうことができました。小説を書き始めて4~5年は経っていたと思いますが、東京の授賞式に招待され、編集部の方々と知り合いました。その際に「受賞第一作を書いてください」と言われ、「よし、これはなんとかなるかもしれない」と思いながら執筆に取り組むも、お目に適う作品がなかなか書けなかった時期が続きました。新人賞の厳しさを目の当たりにすることになったといえましょう。実は新人賞の賞味期限は半年なのです。文学界の新人賞は年2回実施、ちなみに芥川賞や直木賞と一緒ですね。ですので半年後にはもう新しい受賞者が登場するわけで、編集者たちはそちらのケアをするようになる。したがって受賞後半年の間に受賞第一作が書けなければ、受賞で得たせっかくのつながりがほぼ切れてしまう、そういう冷酷な現実を当時は全く知らず、相変わらず呑気に小説を書いていたのですが、いくら書いても掲載されない、どうしたものかと思っていました。

僕の場合、大学院に籍だけ置いているけれども、他の院生達は懸命に博士論文を執筆していました。博士論文を書いて受理されれば勤め先としてどこかの大学を世話してもらえるわけです。しかし僕はもう完全にそのルートから外れていたから、自分で何とかするしかないわけで、それで小説か批評家かと思っていたのですが、小説は新人賞を受賞してそれっきりだし、筆を折って普通に働こうか、どうしようかと思い悩んだ期間が10年近くありました。

公務員試験の受験資格が30歳くらいまでなので受けようかとも思いましたが、試験科目を全く勉強していませんし、やはり小説を書きたい、もう自分が書きたいものがあるから、勉強する気も起きないのです。

妻に収入があり生活に苦労するということはなかったのですが、妻に働かせて自分が無収入に近いとなると精神的につらくなってくるので、30歳過ぎていよいよ何かで稼ぎたいと思い、本当に就職しようと思いましたよ。しかし大学院まで行って30過ぎて何の技能もないとなると就職先もないのです。今でも覚えてるのですが、プールの監視員の採用基準を満たしていたので、その採用に関して話を聞きに行ったこともありました(笑)。しかしやはりやりたくないことはやりたくない、できれば何か物を書いて少しでも収入があるとよいなと。そんなこんなで自分なりにつらい時期ではありましたが、妻はあまりそういうことをいろいろ言う人ではなく、「好きなことしてるならいいんじゃない、私が働いているし」とか言うタイプで、子どもたちも「お父さんはイササカ先生(サザエさん)をやっている」と表現して、温かく見守ってくれていました。とはいえ、さすがにこれはどうにかしないといかんなと思いながらも、売れない小説を書いていました。自分の両親も妻の両親も、どうにかしろというようなことを言う人ではなかったですし、友人も学習塾の講師の仕事に誘ってくれるなどして、環境に恵まれて小説を書き続けていたのですね。今でも付き合いのある恩師も気にかけてくれていたし、かつて僕が反目した助教授もずっと心配してくれていたのですが、当時はそんなこととは露知らず。最近になって、いろんな人に助けられてやってこられたのだなと謙虚に思えるようになりました。当時は追い詰められていたのでそういう余裕がなかったのですが。

最初の出版、「君の知らないところで世界は動く」

書いても書いても売れない期間が長かったのですが、しかし僕には、気にかけてくれる人たちが何人もいてくれたことに救われました。

例えば、福岡の同人誌に書いてみませんかというお声がけをいただいたことがあり、その同人誌の人たちに本当にお世話になっています。

また九大の文学部に、編集者を志していた佐々木さんという方がいて、僕は知らなかったのですが文学界の受賞作を読んで気にかけてくれていたのらしいのです。佐々木さんは福武書店の「海燕」という雑誌の編集者になり、「何とか片山さんの小説を掲載したいと思います」と言ってくれたので、福武書店にどんどん原稿を送りました。そのうちに海燕は編集方針が変わって純文学はあまり掲載しなくなり、佐々木さんも「これは自分のやりたいことじゃない」ということで新潮社に移られたのです。新潮社に移った佐々木さんが、「今は別の仕事をしているから直接自分は扱えないが、他の人に紹介するから原稿を送ってください」と言ってくれたのですね。そのようにして送った原稿のうちの一つを出版部に持ち込んでくれて、それが新潮社から最初に出た「君の知らないところで世界は動く」という本になり、なんとか最初の単行本が出るわけです。このときは佐久間さんという編集者のお世話になったのですが、ほとんど売れませんでした。出版の世界では増刷がかからなければとりあえず失敗とされます。一冊目の本が増刷にならなかったことで2冊目を新潮社から出すことが非常に難しくなりました。

2冊目の出版、「ジョン・レノンを信じるな」

最初の出版では増刷がかからなくて新潮社とはそれきりでしたが、その本を読んだ編集者の何名かの方々から「次はうちで書きませんか」と声をかけてもらいました。その時は角川書店の根本さんという人が一生懸命に動いてくれて、僕にとって2冊目の単行本となる「ジョン・レノンを信じるな」を角川書店から出すことができました。だたこの本も増刷がかからず、角川書店からも次は厳しいぞということになりました。

3冊目の出版、「世界の中心で愛をさけぶ」

その次に、3人目に現れたのが小学館の菅原さんで、彼が「何とかしたいから原稿を送ってくれ」というので送ったのが「世界の中心で愛をさけぶ」のプロトタイプでした。

菅原さんは、「面白いんだけど今ちょっとこういう高校生の恋愛小説を出す雰囲気にないんだよな」という話をされていました。当時は、例えば高村薫さんの「レディージョーカー」など、社会派小説が時代のトレンドでした。企業の内幕や社会問題が書かれているなど、社会性のある本が人気なご時世で、それは他社の編集者からもなんとなく聞いてました。そのために2~3年近く保留の状態が続き、1998年には仕上がっていた原稿であるにも関わらず、世に出るのが2001年4月になってしまったのです。とはいえ、その間もずっと菅原さんとはやり取りはしながら少しずつ書き直したりはしていました。そうしているうちに2000年の暮れ頃に菅原さんから「状況が整ってきたので出版できそう」という連絡があり、年が明けて2001年3月末くらいに無事に刊行にこぎつけました。僕の人生の不遇の時代には、家族や友人や周囲のいろいろな方々に助けられてなんとか書きつないできたものが、ようやく本になり、本になってからも様々な編集者の方々がリレーバトンのようにつないでくださって、なんとか3冊目にベストセラーになったのです。そういう方々がバトンをつないでくれなければ、あるいは周囲の支えがなければ、どこかで挫折していたと思います。自分の力でできることは非常に限られていて、人とのつながりに助けられている部分が極めて大きいのだと、今振り返ってそのように感じます。

今の子ども達について思うこと

63歳になった今だからこそ感じることは、子どもの頃や大学の頃の友人とは、たとえ数十年ぶりであったとしても、ひとたび話せばその頃の気持ちにすぐ戻れるのだなぁということ。人間の関係とは不思議なものだと思います。

20歳くらいまでの若い頃に出会ったものは、その人の人生を既定するといいましょうか、その人の人格に影響するように思います。

そうであるからこそ、若い時代に出会う人・物・事は非常に大切なものです。年若い世代や子ども達と接する中では、老婆心ながら、その大切さを伝えるようにしています。

子ども達と接して~学習塾や剣道での指導を通して~

友人の学習塾にて週1で国語を教えているほか、剣道道場において子ども達に対して剣道指導もしており、またついこの間まで自宅近くの大学でも講義を受け持っていたことなどから、子ども達・若者達との交流の機会は、ずっと途切れずにあるのです。

彼らはいわばスマホネイティブ世代であり、生まれたときからスマホがごく身近にあります。まさにスマホ中心の生活なっていて、さまざまな物事と出会う機会が失われているのではないかとも感じられます。もちろん、僕らの世代が出会ってこなかったような、スマホを通しての出会いというものはあるのかもしれないとは思うものの、とはいえ彼らは自分が本当に好きなものに出会うことは、むしろ難しくなっているのではないでしょうか。 

 僕にとっては、それは音楽で、人によってはそれが文学であったり映画であったり、それぞれが愛好したものになるのだと思います。

音楽によってどれほど人生が豊かになってきたかということ。また恋愛をする際も常に音楽が傍らにあり、好きな人と一緒に聞いた音楽であるとか、「あのとき、ああいう話をしながら、この曲を聴いたな」といった具合に、人生のひとつひとつの情景を浮かび上がらせてくれるのです。

本当に好きなものと出会うことが、我々の時代より難しい今の子ども達世代が、将来どのようになっていくのか、半分心配で、半分興味があるところでもありますね。

人生の節目

父を亡くしたことが自分にとって、これからを生きていく上で極めて大きな出来事でした。父を亡くした当時の自分も、祖父母はすでに亡くしていましたが、それよりもっと親しい身内を亡くした経験は、父の死が初めてといえます。親が自分より先に亡くなるというのは当たり前のことでもあるので、その時はあまり深刻には考えなかったですが、10年ほど経ってみて今振り返ると、後ろ盾を失ったような心細い感覚があったように思います。生前の父とは一緒に暮らしていたわけではないけれども、やはり父が生きていた時はどこかで意識していたのでしょうね。父が亡くなってから数年間はどうもお酒の飲み方が荒っぽくなったり、父が生きていたころはしなかったようなひどい言い方をしたり。年齢的なものもあるのかもしれませんが、何か空虚な感じがずっとありました。

親を亡くす体験は人間にとってどうしても経なければならない普遍的・一般的な体験でもあります。自分の死や大切な人の死をどう考えていけばいいのか、死をどう乗り越える、あるいは死をどういうモノにしていくか・・・・・、世界の中心にあるものは死であり、人間にとって最も大きな問題です。

僕の場合、小説がベストセラーになるとか300万部売れるなど、他の人があまり経験しないようなことを経験しているけれども、それよりも誰もが経験する可能性が高い自分の親を亡くすことの方が重要な出来事であると僕は思うし、汲み取ることが多い、深い体験、大きな体験であろうと思います。「世界の中心で愛をさけぶ」の作中でも大切な人の死というテーマを扱っているんですけれども、僕にとって死は大きな問題として常に自分の中にありました。まだうまく言語化できませんが、人間にとって「親の死」は大きな体験であろうと思いますし、せっかく文学をやっているのだから、そのことに意味を持たせ、何か言葉にしてみたいと。直接 親のことを書くわけじゃないですが、恋愛を描くにしてもその中に親を亡くした体験が入ってないと、これまで生きてきた、あるいは年をとってきた意味がないような気がします。だから何らかの形で反映していくんじゃないかと思うのです。

人生(ライフストーリー)を振り返って

人生というのは、つらいこと、悲しいこと、様々な不条理があるのですが、やはり誰にとっても、生まれてきてよかったと、この世界で数年あるいは数十年過ごすということはやはり良いことなのだと肯定できる考え方を作りたいですよね。

不条理は不条理なんだけれども、どんなことがあったにせよ、それらをひっくるめて、この地球上で人間が生きていることを肯定する、すべてを包み込むような、生まれてきてよかったなという考え方を作れたらいいなと思いますね。

生い立ち ~幼少期~

昭和13年生まれなもので、戦争を経験しています。

7歳の頃でしょうか、空襲警報のサイレンが鳴ると、綿の入った三角帽子をかぶって防空壕に避難していたのですが、それが怖くて食事も喉を通らないときもありました。

昭和20年に戦争が終わり、玉音放送をラジオで聞いたことをはっきり覚えています。

 

生い立ち ~小学生の頃~

小学校6年生のときのクラスで、実はいまだに同窓会をしています。ここ2年間はコロナで中止でしたが、今年は再開できて2年ぶりに旧友に再会することができ、非常に楽しいひとときを過ごすことが叶いました。

この歳になると亡くなってしまっている旧友もおりますが、うちのクラスは何をするにもまとまりが良く、生きている旧友はみんな集まってくれますね。

年に1回、この同窓会のために北海道に里帰りできるのが、毎年 本当に楽しみなのです。

 

青春の日々 ~中学時代~

中学に上がって、周りのクラスメイト達はみんな白米のお弁当を持ってくるのですが、その頃うちは麦ごはんで、学校に持っていくのがやや恥ずかしかったので、昼休みにいったんうちに帰ってうちで食べていた記憶がありますね。

あまり勉強は好きではなかったけれど、算数とスポーツが好きで、体育のときなどはリーダーシップを発揮して楽しみました。

学年で私を知らない人はいないくらいにスポーツ全般万能で、特に駆けること(走ること)が得意でしたし、冬はスキーやスケートなどのウィンタースポーツもこなすなど、スポーツは何でもひととおりできました。

若い頃に体を動かす習慣があると、歳をとってもスポーツを継続できるのではないでしょうか。今でも社交ダンスのステップは踏めますし、84歳の今なおゴルフを楽しんでいて、以前は友人ともラウンドを回っていましたが、今は息子や孫とも楽しんでいます。

 

高校時代 ~ 兄がきっかけで始めたダンス~

函館の造船所で働きながら、4年間、夜間高校に通いました。仕事も遊ぶのも大好きで、高校に入ってから兄に教わって社交ダンスをはじめ、高校1年からホールに通い、先生に指導してもらっていました。

土曜は着替えを持って学校に行き、放課後ダンスホールに出かけるなど楽しい時間を持ちました。兄はダンス講師になるかNTTに勤めるか迷った末、NTTに就職する道を選びましたが、趣味でダンスに出かけていて私はそれについて行くなど、兄と共に長く楽しむことができました。

 

高校時代 ~憧れていた溶接の世界へ~

溶接に憧れ、勤めていた会社に志願して養成所に通って技術を学び、それ以来ずっと溶接一筋です。あるときから溶接にレントゲン検査が行われるようになったのですが、針の穴のように細かな欠陥もわかってしまうので、ごくごく小さな欠陥が出ないようにするために非常に高度な技術が求められました。そのような厳しい基準に対応していく中で、ほとんど手戻りのない正確な仕事ぶりが評価されるようになり、高度な技術が求められる現場にも呼ばれるようになりました。徐々に、しかし確実に信頼されていくことを非常に嬉しく感じたのを覚えています。

 

私の節目 ~就職とともに関東へ

就職のため北海道から千葉へ移り住みました。見知らぬ土地へ行くという不安感はあまりなく、関東に出ればすぐ東京に遊びに行けることを楽しみにする気持ちと、早く仕事を覚えたいという意気込みを感じながら、約1000㎞先の新天地へ旅立ちました。

 

海外でも活躍

勤めていた会社では、時折 海外から研修が来ていましたが、日ごろの仕事ぶりが評価されて私が指導係に選ばれることもありました。言葉が十分に通じるわけではないときもありましたが、私が手本を見せるなど様々に工夫しながら指導にあたり、逆に私が海外に出張に行った際に指導をすることもありましたね。

その成果もあってか、韓国へ出張に行った際に、かつての教え子がリーダーを務めるなど活躍している姿を見ることができたときは、非常に嬉しく思ったのを覚えています。ちなみに韓国は安くておいしいものがたくさんあり、特に焼肉が大好きで、よく食べに行っていましたよ。

仕事で半年ほどインドに行ったこともあります。インドではなかなか現地の食事に慣れず、会社が休みの日は必ず、おいしいものが食べられるホテルに食事に行っていました。仕事のある日は会社から送ってもらったインスタント食品などを利用しながら、特に最初の1か月は食事に苦労した記憶がありますね。

出張で家を空けるときは家族に電話していたのですが、娘が父を恋しがって、母親を困らせたこともたびたびあったようです。息子は小学校1年か2年生の頃に、寂しさのあまりに「パパ、出張ばかりの会社で、そんな会社辞めちゃえ」と泣いたこともありましたが、時は流れて今は息子も社会人になり、今度は息子が忙しく出張の多い日々を送っているようです。

 

仕事に、趣味に、充実した日々

ともかく仕事が大好き、汗を流した分がさまざまな形で報われるのも楽しみでした。仕事ではとにかく自分の技術を磨くことに熱中していて、若い頃は昼休みも休憩せず練習をしているくらいでしたね。

また仕事だけでなく趣味もおおいに楽しんで過ごしました。高校時代に兄の影響で始めた社交ダンスだけでなく、サルサというキューバの踊りも趣味としていたのですよ。千葉の駅前でイベントをやっていたのを偶然に見て、非常にかっこいいセクシーな踊りでしたし、ラテン系の音楽も大好きだったので、伝手(つて)を頼り、本場のキューバの先生がいるレッスン先で週1回のペースで通っていましたが、リズムに乗って身体を動かすと解放感を感じられますね。

 

私の節目 ~妻と出会って~

千葉での生活で最も思い出深いのは、やはり妻と出会えたことにつきます。

千葉に移り住んで2年ほど経った頃に、私は会社の上司の自宅にしばしば遊びに行っていたのですが、当時の妻はその家の近くの美容院に勤めていました。偶然に見かけて、とても垢ぬけて日本人離れした姿に、一目惚れでした。彼女に会えるように取り計らってくれないかと上司に頼んだところ無事に会うことができたというのが馴れ初めで、23歳で結婚しました。

妻は私と結婚した後に、自分の店を出しました。さらに、後に我が家が新しくマイホームを建てた際に、自宅の一部を美容院にして、亡くなるまで美容師として仕事を続けていました。

 

私の家族 ~愛する倅と娘に恵まれて~

男の子が一人と、女の子が一人、2人の愛する子供たちに恵まれました。

兄妹はすごく仲が良く、兄の方は4つ下の妹がかわいいあまり、かまいすぎてしまうこともあり(笑)、また妹も年中 兄に付いて回っていました。

妻はピアノを嗜んでおり、息子もピアノを習いましたし、娘は現在もピアノ講師の職に就いて、小さな子どもたちから人気を得ているようです。

 

私は結婚して子どもができてから、一人で遊びに行ったことはなく、家族4人で出かけるのが楽しみでした。

妻はいつも働きながら料理もしてくれていますから、たまに上げ膳据え膳で食事をさせてあげたいということで外食に連れて行ったり、他には動物園、バラ園、海水浴・・・常にいろいろなところに一緒に行きました。私は当たり前のことをしているつもりでしたが、夫婦でとても仲が良かったですし、子ども達は大人になった今も「親父にたくさんいろんなところに連れてってもらったなぁ」などと言ってくれています。子どもたちは今も、すごく親孝行してくれていて、非常に感謝しています。

 

私の家族 ~兄弟のこと~

男兄弟4人の末っ子です。

すぐ上の兄貴はよくいろいろなところに連れて行ってくれて、兄弟のなかで最も親しんでいた兄貴でしたし、私がダンスを始めるきっかけをくれました。

 

孫と楽しむ今

息子には三人の子があり、私の孫にあたりますが、しばしば一緒に過ごします。

私は食べることが好きなので、孫たちに東京のたくさんの素敵なお店に案内してもらって一緒に食事をしたり、お酒を飲んだり、カラオケをしたり…しょっちゅう会って話して楽しんでいます。またここ数年は息子がしばしばゴルフに誘ってくれるようになり、孫も交えて3世代でゴルフのラウンドをまわることもあります。84歳の今、この歳になり、そういった時間を持てることが私にとってすごく幸せなことだと感じています。

 

いま伝えたいこと

私たちの子どもの頃は“親の言うことは絶対”、そういう時代でした。

しかし、時代というものは動いています。子どもたちや若い世代の成長とともに、世の中の考え方も変化していっているんですね。私はこの歳になっても、お若い方々と話すときは、その若く新しい考え方を知りたいと思いながら話しており、その変化に適応していきたいと心がけています。

 

個人的に思うのは、やはり子どもたちとのコミュニケーション、これが一番大事なことだと思います。

世の中で起きている様々な事件の背景をみると、やはり子どもの頃にコミュニケーションが足りなかったという事例が多いのではないかなとも思うのです。子どもを設けたら、親として、特別なことをしなくても、声をかけること、すなわちコミュニケーションが何よりも大切なのではないでしょうか。

自分の過去を振り返ってみると、子どもたちとのコミュニケーションをとれてきたからこそ今の幸せがあると感じています。

我が子ではありますが、心から感謝の気持ちを伝えたい。

いま、人生を振り返り、強くそう感じています。

朝4時、いつものように庭のデッキに出て一本の煙草をふかしグラスに一杯の水を飲む。

今日は2022年7月17日、72回目の誕生日を迎えた。干支が6回りした。

随分長く生きたもんだ。十二支を一回毎に分けて記憶を辿ってみた。

 

0~12歳 (1950~1962年) - 躾と読み書き算盤

母から幼い頃厳しく躾けられた。若い時には恨みもしたが今はとても感謝している。

躾の目的は善悪の判断を体で覚えること、スパルタであった。善とは自分が好きなことは相手に分け与えること、自分が嫌なことは相手にしないこと。悪とは自分が好きなことを相手に与えないこと、自分が嫌なことを相手にすること。愛されたければ愛しなさい、親切にされたければ親切にしなさい、見下されたくなければ見下すな、束縛されたくなければ束縛するな、嫌われたくなければ嫌うな、である。体罰も含めて反復練習を強要された。

犬とブリーダーの一方通行の関係であった。後年、人との関係構築に無理なく入って行けた。それから小学生の6年間、綺麗な岡本容子先生、多情な安達達人先生、豊田一サラリーマン先生、それぞれ個性の違う先生方に読み書き算盤を教育して頂いた。

読み: 読書を通じて相手の意見を聴く力を学ぶこと

書き: 作文を通じて自分の意見が話せる力を学ぶこと。

算盤: 将来自分の食い扶持は自分で稼ぐ力を学ぶこと。

人間と動物の違いは学問に負うところが大きいと諸先生方に教わった。

 

13~24歳 (1963~1974年)- 北極星を探して

中学生時代、躾と読み書き算盤が不足していた私の間隙をぬって鉄拳が飛び交った。又川善一、中村勲、中原弘子熱血先生登場である。理屈より体で覚える時代であった。有り難かった。安倍晋三が欲する日本的優良青少年を目指した。空はいつも快晴であった。

高校2年の春、母が他界した。死因は膵臓壊死、大阪上本町の赤十字病院の主治医から死ぬほどの病気ではなく主因は生きる気力が無かったと聞かされ足が竦んだ。父と別れ新しい生活を望んだ母を私は阻止した。女心も人の道も解らず阻止した。快晴が曇天に変わり、

学業をほったらかし、生活費を管理し始めた妹の財布から金を持ち出しては夜の街に遊んだ。堕落に身を任せた。自堕落な私に女給や不良やヤクザは何故か優しく安らぎをくれた。大阪から遠く離れた地方の公立大学になんとか滑り込み上州の空っ風に吹かれて旅をした。北海道一周1カ月の均一周遊券1万5千円、ユースホステル1泊2食付6百円、北海道から鹿児島まで500日は旅をした。残りの日々はもっぱらポン、チー、ロンで生活費稼ぎ。旅と麻雀が私に思考力を与えた。思考力から行動力へ、対象は学生運動。真面目さを思い出しべ兵連と中核派を掛け持ちした。奥浩平、高野悦子、高橋和己、柴田翔、吉本隆明の本を片手に水俣、富士、三里塚、扇町公園、明治公園、新宿西口広場で角棒を振るった。有段者揃いの機動隊と栄養失調のマッチ棒学生、全戦全敗であった。思想的には反帝反スタ、社会的にはベトナム反戦、部落解放を叫んだが本音は一握りの支配層が多数の被支配層を牛耳る長年の構造仕組打破であった。同級生が髪を切りジーパンからリクルートスーツに衣替えする頃、学生運動は内ゲバ化に走った。共に馴染めず岡林信康の世界、山谷、釜ヶ崎等ドヤ街の虚無の世界に憩いを求めた。明日の見えない日雇い労働者も優しかった。

人の優しさ、周りの安らぎは、しかしながら何のために仕事をするのか、何の為に生きるのか、の根本的疑問に答えてはくれなかった。答えは自分で探し自分で作り上げるしかない。5年かかってなんとか卒業し、覆いかかる閉塞感からの解放は最早日本では見つからず光を海外に求めた。優等生だった頃、堕落した頃、学生運動に身を燃やした頃、虚無に安住を得た頃を経験して気付いた物、それは唯一ぶれない心、私だけの北極星を手に入れることだった。1974年6月21日ロシア船籍バイカル号の3等船室に乗り横浜港からナホトカ経由、ロシア大陸横断鉄道でヘルシンキに向かった。

 

25~36歳 (1975~1986年)- 北極星との出逢い

ヘルシンキ、ストック、コペン、アムス、ハンブルク、パリそしてロンドンの都市をそれぞれ1週間から1カ月間漂った。多国籍の私と同じ夢を捨てきれぬ若者と出会った。貧しい身なりで目をぎらつかせた白人が多かった。北極星どころか闇夜が続く中でも似た境遇の若者に妙な安堵感を覚えた。ロンドンで力尽きた。何日も高熱に魘され気が付いた時は

ロンドンのアリスコートのフラットの一室で見知らぬ女学生の介護を受けていた。名は佐々木加奈、札幌羊が丘の二十歳の御嬢さんだった。同じフラットの一室を大家のフェビアーニ氏に掛け合い格安家賃で借りてもらった。同フラットには他に二人の日本人が住んでいた。川崎の康、十勝のミー、翌年4人で広い3LDKのフラットに移り共同生活を始めた。それぞれの友人が毎日のように3LDKを訪れた。乞食のコスター、淫乱友子、クレオパトラ似のミトラ、シンガーソングライターのT氏、イラン革命で死んだ高潔青年ジャビッド、お高姉さん、商社マン大石さん… 微かに北極星の光が差した。それはイデオロギー、宗教、歴史、地理、金とは無関係の人の心の核心部に存在する何かであった。国籍、

年齢、貧富、身分、性別、個性の違う雑多な人々全てに内蔵する何かであった。昼はシェークスピアを習い、夜はアルバイトに通い、学校休暇の間にまた旅をした。ネス湖の旅、

パリの旅、アルジェの旅、週末にはポートベロマーケット、ソーホーのジャズクラブ、

ウインザー城のライブコンサート、シェイクスピア劇場、テートギャラリー….

3年8カ月のロンドンはエデンの園であった。微かな光を土産に帰国した。充分であった。

帰国後、積極的に職を探した。北極星に向かって進める仕事を探した。海外出張が多い、小さくて自由な貿易会社、FRPサービスに運よく巡り合った。社員は総勢5名、柳田社長

岩本専務、石井経理担当、小村船積担当、岡本事務員とは終生同志同胞である。

入社以降、私の北極星は輝きを増した。日本人と全く価値観、商道徳、発想法、喜び悲しみ方の違う外国の人々との商いに喜びを得た。自分本位の狭小思考から相手本位の宏大思考が利他の喜びと多様性の豊かさを運んできた。仕事は困難度に比例して充実度が増す、失敗が辛くなくなった。

 

37~48歳 (1987~1998年)- 外なるマキシマリストへ

20代の貧しい南アジア、バングラデシュ、スリランカ、パキスタン、インドの行商から

30代前半のオイルリッチの中近東、サウジアラビア、クウェート、バーレーン、イラン、イラクを経て30台半ばから東アジアの台湾、韓国、中国そしてアセアン諸国へと商いを

拡げた。海外滞在期間が日本滞在期間を上回った。金の為より人の為に働く会社の雰囲気が精神的高揚感を生み肉体的疲労感を打ち消した。地理的拡大、そして商い、FRPの主力材料である硝子繊維、ポリエステル樹脂の開発途上国への輸出とその材料を使って作る船、

浄化槽、自動車部品等々の輸入両方の拡販は商売の醍醐味をもたらせ私を有頂天にさせた。

とりわけ湾岸戦争、アジア通貨危機等の経済危機をビッグチャンスと捕え大手企業とは逆にその地に足を運び留まり大きな成果を得た。爽快であった。

 

49~60歳 (1999~2010年) - 内なるミニマリストへ

目の前の人参を追う年が続き、やがてグローバルビジネスマンの自惚れが鼻につき始めた頃、日本人としてのアイデンティティが無性に気に成り出した。自分の立ち位置が何処にあって仕事に従事し生を持続させているのか。北極星の輝きは止まった。三島の言う天皇制に基ずく日本の伝統文化を習得し、日本人としての誇りをもって自主独立の皇民たるべし、では北極星の輝きは取り戻せない。私のDNAは前に進んでいる時に何か大きな障害に出くわしたとき必ずと言っていいほど真逆の選択をする。過去には退廃、虚無、孤独に身を置いて社会の底辺に生きる人から癒しと慰めを得た。50歳代は毎月フィリピンに一週間滞在した。ルソン島の中央部にクラーク空軍基地がありかつて米軍兵士が駐屯していた。その近隣に沢山のバーが林立し多くの娼婦が働いていた。今回はその娼婦達と情欲に溺れた。ジーナ、アンアン、サリー、アナベル、グレース、リン… 多い時には8人の女性が傍にいた。愛のない交わりにも安らぎはある。彼女たちは一様に明るく天使であった。後日彼女たちの多くは外国人と結婚し子をもうけヨーロッパ、アメリカ、オーストラリアで暮らしている。毎年届くクリスマスカードには義理堅さがある。底辺に落ちた女は逞しい。

そんな爛れたフィリピン滞在中のある日突然、無から有が生まれた。“シンプルライフ”、

ミニマリストとして最低限の荷物を背負って生きればよい。“人生の旅の荷物は夢ひとつ”

熱い気付きはいつも自分を底辺に落としてこそ出会う“無”から生まれた。

私の立ち位置は、私のアイデンティティは北極星を追い続ければ良いだけのことである。

 

61~72歳 (2011~2022年) - 美しい理想と醜い現実のバランス

60代は企業業績が良く法外な収入を得た。10年間の給与が3億円、個人経費が2億円

合わせて5億円。成金生活を一時試みたがすぐに飽きてもっと有効な手段に切り替えた。

三方良しとは近江商人が唱えた売り手、買い手、市場三方を潤す商道徳で有名だがこれを

自分、身内、他人の三方に置き換えた。収入を3分の1ずつに分けた。仏典の金銭感覚の教え、The greatness is not what we have. It’s what we give 富の公平な分配意識である。

既に海外行商や注文取りの活動を控えもっぱら国内外の社員に仕事の面白さを説いた。

好きな職種を選び従事しなさい。さすれば努力、苦労が苦にならない。

金の為に働くな、人の為に働きなさい。さすればいつか必ずフォローの風が吹いてくる。

海外工場労働者の大半は農民出身者である。農奴の様な状態が現代でも続き天候や疫病に左右される不安定な収入が安定した月給で3食が賄える労働者に私の説明は空しい。また

衣食住が確保された日本の社員もより高い給料、より安定した企業に気持ちが向かい、

好きな職種選びや人の為に働く意義に興味を示すものは少ない。私の説得は空振りだ。

理想を掲げて突き進む仕事より損得勘定で現実を有利にもってゆく仕事が幅を利かせる。

崇高な職責は常に現実の打算に壊されるのが世の習わし。さて如何したものか。私に答えは無い。70歳の3月末日私は職を辞した。辞した後でもその答えを追い求めねばならぬ。

利他主義が利己主義を、前頭前野の脳細胞が脳内ホルモンのドーパミンを、そして美しき理想が醜い現実を超える日が来るのを固く信じて。北極星は遠いが輝きは失わない。

 

忘れられない出逢い

書物上の出逢い

聖徳太子、菅原道真、楠木正成、真田幸村、松平容保、西郷隆盛、坂本龍馬、東郷平八郎、

夏目漱石、山本五十六、宮沢賢治、三島由紀夫、司馬遼太郎、イエスキリスト、モハメッド、釈迦、プラトン、ヘーゲル、孔子、ドストエフスキー、マザーテレサそして天皇ヒロヒト。皆美しい理想を終生追い求めた先輩諸氏と読み取った。

 

映画・音楽との出逢い

ゴッドファーザー、ソルジャーブルー、ジャニスジョプリン

何度観ても、何度聴いても、その都度違う感動を覚える。

 

同志7人との出逢い

西岡俊和 - 同級生。高校1年から65歳で他界するまで思考、行動を共有した。

アリ・コラガシ - 中近東最初の顧客。湾岸戦争で全ての資材をクウェートに残しヨル

ダンに逃亡したパレスチナ実業家。祖国の独立に命を捧げた。

ファリッド・アフメド - ベンガル人。アラーの神の神髄者。極貧のバングラデシュで

貿易会社と繊維工場を立上げ倒産し、ボストンで病に逝った。

スチーブン・ソウ - 客家のシンガポール人。儒教とキリスト教を中華思想の核心部に

据え、華僑の自負心を持ち続けたエンジニア。

ダッドリー・フェルナンド - シンハリ人。仏教の慈愛を商売と融合させている造船家

ウィチット・チラポンサナルラック - タイ人大学教師。大道無門、和顔愛語を実践中。

ジョン・タイディ - イギリス人。私の最高の同僚。死の直前までユーモアに生きた。

人種、思想、宗教、世代が違う7人は其々に志を立て、志に殉じる生き方を貫いた。    それ故に最も嫌悪すべき人間の劣性感情、裏切り、の心配がお互いに微塵もなかった。

人間の最も歓喜すべき優性感情、信頼、が隅々まで行き渡る人間関係は正に至宝であった。

 

遺しておきたいもの

(これまでに見つけた5つの複雑な課題への我流回答)

一 利害調整

利害関係のない人間関係は信頼を生む土壌を作り、利害関係のある人間関係は不信を生む土壌を作る。利害を調整する制度設計を人は模索し続けるも利害が形而下に発生する産物ゆえにいつもぶれる。形而上の利他の心で設計図を。

一 理性と感情の両立

理性と感情は相対立する関係でそれぞれを司る脳細胞と脳内ホルモンに支配される。

脳細胞は所属する人類を守ろうと働き、脳内ホルモンは自分の生命を守ろうと働く。共に不可欠な役割を担うが故に程よいバランス感覚を個々の個性で成立させること。

一 恋愛観

愛と恋とは本質的に違うものである。愛は脳細胞の守備範囲で永遠のもの、相手の望むものを最優先に置く、見返りを求めない。対して恋は脳内ホルモンの守備範囲で一時的なもの、自分の望むものを最優先に置く、従って怒りや不信、嫉妬が付き纏う。

若い時代の熱きトキメキは恋、大人の恋は愛、と判断した。

一 情報過多の時代に

耳からの情報より手触り肌触りがより正確。一人旅で量的拡大歴史書耽読で質的深化、

依って俯瞰性、仰視性の両面から弁証眼を養うことで情報の整頓に役立つ肌感覚を。

一 私の北極星の正体

人生は幸せ探しの旅。北極星はその道標。

(私の幸せとは)

幸せになってもらいたい。現世に生きる者が幸せな人生を歩むために先人達はありとあらゆるものを遺してくれた。動物と人間の成長の決定的な差は動物が自己体験しか未来に遺せないのに対して人間は伝承と言う手段で自分以外の他者の体験を未来に生かせる点に有ります。彼らの遺してくれた多様な選択肢の中から私は、幸せはその漢字を構成する辛さプラスワン、辛 + 一 = 幸 を選んだ。幸せの必要条件が辛さ、充分条件が横棒一本、辛さを避けては幸せは成り立たずプラスワンは人が学び思考し行動する結果その人だけが得る独自のこころざしであろう。願わくばその志が形のある形而下の物ではなく形のない形而上のものであって欲しい。願わくば愛溢れる利他心であって欲しい。志ある者が多数を占めた時にやっと人類に反戦平和が根づく。

私の場合は、善悪の判断も学問的知識も思考力も行動力も誰かに受け継いでもらえるほど

の領域にまで達せず、せいぜい自分を照らす北極星の灯りの強さを少しでも明るくする程度のものである。それでも、より良き人間になろうとする道程こそが幸せを実感できる唯一の所作と確信し幸せを感じつつ生きております。昨年は肺炎による3度の入院、週3回の人工透析の開始さらに今年の春心臓バイパス手術と立て続けの病と闘っております。

もはやこれまでかと覚悟した時もそれほどの恐怖感はありませんでした。彼方の北極星の存在が理由です。

私の生まれ

私の生まれは大阪府泉佐野市鶴原と言うところで生まれました。父は三帰省吾63歳で44年前に永眠。母の名は静74歳で20年前に永眠。母学習私が5才の時長女と妹を連れて家出。後2年後父と母は離婚。父は隣りのお寺(光泉寺)の次男坊として生まれる。父は僧籍は持っています。小さい頃から頭の良い天才児だったと言う。当時の和歌山大学卒業後、日発(日本発電所)と言う会社の労働組合の書記長を務めた。しかし1949年にゼネストをしようとしてマッカーサーによりゼネストはストップされ父は解雇さなれた。その後日本共産党員として地下に潜り1952年に吹田事件の首謀者となり3000人の集会デモを起こし拘置所にも入る。しかし3か月程で出てきたと言われる。私は1950年生まれだけど、その時も父は拘置所に入っていたらしい。私の名前は父が拘置所に入っている時につけられたと聞いています。裁判は1980年迄続くが全面勝利で30年ぶりに無罪判決を受ける。私は30年間犯罪者の息子として育つ。

 

私の生い立ち(私の子ども時代)

私三帰天海は5才まで両親の下で育つが5才の時長女と妹を連れて家出。10才の時父の妹の家(八木家)に養子(世話になる)18歳まで。

 

私の学生時代

10才の時八木家に世話になると同時に柔道か剣道をしろ。他のスポーツはヤンキーのスポーツなのでやってはいけない。(クラブに入ってと言う意味だと思います。)12歳小学校卒業まで町道場にかよい、中学校からは学校柔道部に入る。高校になれば、天理大学柔道部の卒業生で高校の全国大会であの全日本1位になった坂口征二と決勝戦団体のキャプテンとしてやりあい引き分けた。と言う橋本清と言う先生でした。その時に大阪府個人戦無差別で600人中私は68kgでしたがベスト8に入った記録があります。当時は黒帯で2段でした。

 

私の青春時代

18歳から20歳まで東急車両に就職して電車や海上コンテナの電気溶接工員でした。20歳で柔道3段でした。20歳から大阪府立農芸高校に教員の実習助手として食品加工科に就職。30歳で農業教諭となりました。教育の限界を感じて34歳で退職アメリカに柔道着1着で渡る。

 

私の略歴

1.)大阪府泉佐野市鶴原小学校1年生から4年生まで

大阪府堺市立津久野小学校4年生から6年生卒業

2.)大阪府堺市上の芝中学校卒業

堺市の柔道大会で団体優勝する。

3.)大阪府立堺工業高校卒業

堺市高校柔道大会団体優勝

大阪府工業高校大会団体優勝

大阪府無差別個人ベスト8に入賞

4.)18歳から20歳

東急車両入社溶接工として。

5.)20歳の4月から34歳の10月まで大阪府立農芸高等学校の農農業教科教諭14年間勤める。

6.)2年間アメリカのカルフォルニアにすみ武者修行。

先生探し、2年後1987.10月にインドの女性のグルーマイと言う先生との出会いと見つかる。

アメリカに入って2週間後に福田敬子10段に出会う。そこの女子道場で福田敬子先生の補助として乱取りのお仕事をもらう。

座禅で座る。皿洗いのアルバイト。柔道教師。で生活。

7.)LiSAと共に1987年から1988年東京専修学院卒業と同時に東本願寺の僧籍と教師免許取得三帰釈迦Diego8月29日出産。

8.)1989年4月から1994年までアメリカインドのSYDA瞑想修行道場に就職。料理と柔道の仕事を寺の中でする。

9.)1984年6月に静岡県の静波の光正寺と言うお寺に入寺

10.)1994年10月に光正寺を出て、妻LiSAが東京に出たいと言うので東京に移転。アパートに入る。

11.)LiSAアメリカに帰り離婚。三帰天海1人日本に残る。

 

私の節目

34歳で日本を柔道着1着でアメリカのカルフォルニアに渡る。36歳でインド人のグルーマイにニューヨークの山の中のインドのお寺で会う。

 

私の家族

現在柳沼ちひろ45歳と結婚してもう13年目になる。

 

私の人生の恩人

アメリカで出会ったAlex Feng .グルーマイ、福田敬子10段

 

私の趣味・好きなこと

柔道

仏教の勉強と書く事。

 

私の座右の銘

死ぬ時は溝の中でも前向きに死ぬ事。

 

人生を振り返って、いま伝えたいこと

教育の行き詰まりで日本を出たが今はその時の行き詰まりが無いので、昔に戻ってお返しをしたいが時間が経ち過ぎてもとに戻れないので、そのお返しを縁のある人にしたいと思っています。

生い立ち 〜子ども時代〜

僕が生まれたのは産院ではなくて、家で助産婦さんが取り上げてくれたそうです。その時父は帝劇(帝国劇場)に行って演奏をしていたので、家には母と助産婦さんだけ。夜になって父が帰ってきたら、赤ん坊が生まれていた、ということです。

小学生の時は色んなエピソードがありましたね。母はよく小学校に呼び出されて。「お宅のお子さんは授業中でも気持ちがどこかにいっていて、空想の世界に入りこんでしまう」って。それにお習字は紙からはみ出して書くし、絵はぐしゃぐしゃに描くし(笑)

でも母は、「いいんだよ。習字なんてはみだすくらいの方が面白い」といって理解してくれました。父もそうでしたけれど、型にはまるような感じではなかったんです。

家にはアップライトピアノが2台あって、生まれてからすぐに音楽を聴く生活でした。父と母は家でピアノの教室をしていたのですが、戦後のその時期はピアノブームでしたから、2人合わせて1週間に100人以上の生徒が来ていました。そうすると家に居る場所がないから、「子どもたちは外行って遊んでこい」と言われるんです。それで、外に行って遊んでくると足が泥だらけになるので、縁側にあるバケツで足を洗って、おやつのきゅうりやトマトを食べて、ピアノを弾く、という感じでしたね。

 

生い立ち 〜学生時代〜

大学は東京藝大を受けたんですが、1年目は落ちてしまって。父親はがっかりしてましたけど、僕は嬉しかったですね。1年間も自由にできることがありがたかった。高校時代は学業と音楽の両立が大変でしたから、浪人していた1年は本当に素晴らしかったと思います。自分の好きな映画を見たり、演劇を見たり、色んなことをして。自分の好きな音楽を自分で見つけて。そうして翌年藝大に入ったんです。

本も、自分が好きな本を古本屋で手当たり次第買って読んでいました。そしてある日、北欧の文学に出会ったんですね。読んでみたらとても良い雰囲気があって、それを気に入って。それからは北欧文学はたくさん読みました。北海道の室蘭で育った母の話を聞いていたこともあり、北への憧れがどんどん育っていって、とうとうフィンランドにまで行っちゃいました(笑)

 

卒業後、フィンランドへ

藝大を卒業後にフィンランドへ行くと言ったら、皆びっくりしたんです。音楽を勉強するにしてもキャリアを築くにしても、ヨーロッパやアメリカに行くのが普通の考えでしたから。それがなぜ北の端の、何もないところに行くの?って。反対したり呆れられたりしました。

でも僕は、フィンランドに行って音楽を勉強しようというつもりはなくて。ともかく音楽を勉強するのは当たり前で、それはどこに行ってもできる。僕は先生もいらないし、自分で探していく、という考えでしたから。北欧の文学や絵画、豊かな自然といった独特な雰囲気に惹かれていたので。フィンランドは日本からもヨーロッパの中心からも適度に距離がある。そこへ行って、自然の中で静かに自分を探していくことに憧れていたんでしょうね。

そうしてフィンランドに拠点は置きましたが、60年間の演奏生活ではアメリカ、南米諸国、ロシア、ウクライナ、ヨーロッパとアジアの全域、インド、オーストラリア、中東など世界を広く演奏して歩きましたよ。

 

脳溢血になってから 〜次のステップへの2年〜

2002年の演奏会直後に脳溢血で倒れ、右半身不随になりました。

脳溢血になってピアノが弾けなくなったことを、みんな物凄くドラマティックに考えるんですよ。「ピアノが弾けなくなった」「弾けなくてどうするんだろう」と。そしてみんな、「もうこれからはゆったり暮らしていけばいいよ」って、言うんです。

確かに右半身不随になって、ピアノが弾けなくなった。だけど、みんなが言うほど「ピアニストとして終わりだ」と僕は全然思ってなかったんです。だからといって右が動かないからそれをカバーするために左手でやろうとか、右のリハビリをどんどんしようとか、そんなことも考えませんでした。

でも今になって思うと、病後の2年間の何もしていなかった時間がすごく良かったと思うんですよ。それまでがすごく忙しくて激しい生活でしたから。絶えず演奏会で世界中をとびまわって、CDを100枚以上作って。倒れたのは、ちょうどデビュー40周年の記念公演のツアーを終えた翌年でした。ある日突然、時空が途切れて何も無くなった。だけど、その空白のような2年間は実は空白ではなくて、次のステップに行く過程であって。その2年間が得られたのはすごく良かったと思います。1年間浪人していた時と同じです。その期間に自分のあり方や生き方を考えることもできた、そして、何もしていなかったその月日こそ、自分はいつか必ずピアノを弾くことに戻っていくのだという気持ちを強くしていき、新しい一歩を踏み出すための大事な時間だったのだと、思っていますよ。

 

演奏活動への復帰 〜左手で弾く〜

倒れて2年の間は、失意の日々を過ごしたという記憶もないけれど、リハビリを懸命にしたということもなくて、まして、左手だけでピアノを弾こうということも考えていませんでした。でもある時、偶然左手のピアノの楽譜を見て。その瞬間、「あ、これでやっていけるんだ」と思ったんです。「これが自分の行く道なんだ」とわかったのです。それは一瞬のひらめきで、自分でも本当に不思議だと思います。2年の時間は自分に必要な時間だったのでしょうね。

それから復帰までの道のりはすごい勢いでしたよ。その翌々日に、日本にいる作曲家の間宮芳生さんに「一年後に日本でリサイタルをすることにしたけれど、左手の曲はすごく少ないから何か曲を書いて欲しい」という内容のFAXを送りました。リサイタルをするイメージが湧いたら全然疑わなかったですね。そういうのが僕の性格なんです。

間宮さんからの返事はその二日後に来ました。「喜んで書きます」「これは僕からのお祝いです」と。そして、25分くらいかかる大きな曲を書いてくださったんです。それが日本で生まれた最初の、左手のためのピアノ曲でした。

それともう一人、長年の友人でもあるフィンランドの作曲家ノルドグレンさんにも作品をお願いして、彼も20分くらいの曲を書いてくれました。僕のために書かれたこの二つの作品を軸としたプログラムで復帰の演奏会を全国で行いました。

左手での活動が新しい一歩とは言ったけれど、その一歩を踏み出した自分は、それまでの自分のあり方と実は全く変わっていないんです。相変わらず己の道を歩き続けているということで。2004年から左手だけで演奏はしていても、音楽をやることには変わりはなく、だから、片手だけで弾いているという意識も感覚もないんですよ。

 

音の世界

夢を語ってくださいと言われることが多いのですが、僕は夢というのを持ったことがないんです。生まれてから、自分がやっていることがどんどん先へ広がっていって、それを追いかけているうちに、こういうことをやりたいということが自然にわき出てくる。それができると、今度はもっとやってみようとか、新しい形で色々できるだろうとか。そういうのが自然発生的に生まれていくんですよ。

コロナ・ウィルスで、演奏会ができなくなり、私の生活にも大きな打撃となりましたが、僕にとっては音楽を抜きにしては人生は考えられない。毎日ピアノに向かって、音がたち昇ってくるたびに「あぁ、生きてるんだ」と感じます。ひとつの音から夢が、素晴らしい世界が広がっていくといいますか。その広げていく作業が楽しくて、それが生きている証なんだと思っています。

僕にとって音楽は生きることと一緒です。生まれた時からずっと、両親が楽器をやっていて、生活の中に自然に音がありました。そして、子供のころから、音楽を通じて色んな世界に入っていくのが染みていましたから。だから今でも音の世界で過ごすことが一番です。

 

フィンランドの学校で

フィンランドでも時々、学校で演奏をすることがあります。フィンランドの学校のコンサートは、ジャズバンドやポップスなどの賑やかな内容が多いので、僕が何年か前に頼まれて行った時に、先生たちから「今日は生徒たちが落ち着かないかもしれないけど、我慢なさってください」と言われまして。

だけど、僕がピアノを弾き出した途端、生徒たちはみんな静かになっちゃった。砂に水が染み込むように、音楽がすうっと心に染み込んでいくように子どもたちは感じたんでしょう。

学校の先生たちはみんなびっくりして。後になって送ってくれた感想文には、「舘野泉ってのは良い人だ」という感想が多かったです。音楽を弾いていて“良い人だ”って言われたのは初めてでしたね(笑)

 

メッセージ

音楽や芝居などの芸術は“不要不急のもの”ということをよく言われますね。

でも、その世界と交わることで、色んな夢も広がるし、活動も広がっていくわけですから、

そういうものほど大事で、生きていくことの価値があるのだから、どんどん接していけるようにしたいですね。

音楽(クラシック)は格式が高いともよく言われますけれど、そうではないですよ。誰もが生きていて感じることをやっているだけで。その中で自分がそれぞれ受け取れるものを拾っていけばいいだけ。何がどうあらなければいけないってものではないと思います。

幼少期

~両親からの自由な教育~

2001年 東京都世田谷区の病院で生まれました。

なんでも気になったものや生き物がいたら、「これは何?」と母に聞いていたり、いろんなことに興味津々で好奇心旺盛な子供でした。通園中でも母は一緒に立ち止まって、一緒に考えてくれたり、答えを探してくれたりしていました。また、水があると飛び込んでしまうような子供で、海や川や公園の噴水などどこでも飛び込んでいたそうです。また、遊び足りないと、親戚の家でもどこでも泣き叫んで帰らなかったそうです。

母は絵がとても上手で、リビングのかべに大きな模造紙を貼って、そこにアンパンマンのキャラクターを私が言ったものを描いてくれるということもしてくれたり、私が頭からヨーグルトをかぶっても怒らなかったり、とても自由な教育をさせてもらいました!

 

3歳で幼稚園に入園します。

幼稚園の友達と水泳を習い、水泳が好きになります。特に得意なのは背泳です。

5歳で周りの女の子が習っているからという理由で、ピアノを習い始めます。

途中でピアノは楽しくないと言い出しましたが、先生の方針で、「それでも音楽をして欲しい」と言ってくださり、歌のレッスンをしてくださいます。そこから、声楽やポップスや弾き語りもして、ピアノにも触れさせてくださって、たくさんいろんな曲を発表会で演奏しました。また、音楽は聞くのも好きで、音楽業界で仕事をしていた親戚の影響もあってたくさんのコンサートに足を運びました。Jpopの曲から海外アーティストまで様々なジャンルの音楽が好きになります。

 

そして、小学生は女子スポーツクラブに所属して、バトントワリングや長距離走やドッジボールなど、普段からスポーツをするような生活をしていました。また、青山学院初等部で、体験させてもらった行事がたくさんあって、いろんなことをしました。客船を一隻借りて、日本半周旅行に行く船旅では屋久島に行ったり、長崎の平戸で初めての2kmの遠泳もしました!

中学高校では、6年間バドミントン部に所属して、部長をやったり、怪我に悩まされた時期もありましたが、組織というものはなんなのかということを実感して、学びました!

 

私の節目~カメラを買う~

周りの子が持っているからという理由で、中学1年生(13歳)の時に自分のお小遣いでミラーレス一眼カメラを買いました。そこで、撮った写真をinstagramにあげることで知らない同級生からもメッセージが来たり褒められることが多くなり、自分の“得意技”や“自信”となっていきました。

大学3年生になった今では、大学サークルの撮影から、学生フリーペーパーに載る芸能人の撮影を行ったりしております。

 

私の節目~写真家の方で出会って~

大学生になって、写真部に所属して、写真をより一層磨きました。大学二年生が始まる頃にコロナウイルスで日常が変わってしまいました。2年生の1年間は空白の1年間だというふうに思っていて、本当に良いことがあまりなかったです。しかし、唯一の面白い出会いと言っても過言ではないくらい、大学2年生の夏に、小平尚典さんという写真家の方に出会いました。なんでというくらい沢山自分の将来のことを一緒に考えてくださったりとか、展示の設営の手伝いに呼んでくださったりしました。なんでも話せて、相談もできる大人の方のお1人で本当に感謝でいっぱいです。

 

私の節目~初めてのインカレ所属~

大学3年生の前期では“対面授業が始まる”という学校からお知らせがあったが、どうせできないであろうと8割型諦めていました。そのため、SDGSの環境問題に興味があったのもあり、「十大学合同セミナー」というインカレに所属を決めました。ここでは沢山勉強もしましたし、25,000文字の論文を30人ほどの仲間と書き切り、思い出も仲間もできて良い経験でした。

また今でも、常日頃から“環境問題”をはじめとした様々な社会問題に興味がある子たちばかりなので、voice upなどの発信をしている姿を見て、興味関心に引き立てられています!

 

私の節目~初めての外部展示~

大学3年の7月から外部のグループ展示に参加をしないかと呼ばれることが多くなり、その経験から大学3年の11月に青山にてグループ展示の代表を務めました。1ヶ月という長い期間お借りして展示ができたことはとても光栄であり、たくさんの感謝の言葉や応援のメッセージをいただきました。自分の自信にも、思い出にもなった最高の1ヶ月間でした。

 

私の節目~経営スクールに通い始める~

経営の知識はもちろん実際にアポをしたり、数字での結果を求められる世界で学生ではできない体験ができています。途中のクラスで、歴代最速卒業記録を出したり、数字としてとても自信になりました。そこでの友達や大人の方とも沢山出会えています!!

歴代最速記録を出したことで、そのスクールの取締役の方と、お食事に行く機会をいただきました。そこで沢山いろんなことをお話ししただけでなく、コンサルをされていることもあり自分はどんな風に今後キャリアを築いていって行った方が良いのかなど考えるすごい良い時間になりました。

 

私の節目~写真家の方と出会って~

大学3年の12月にヨーロッパでカメラマンをされている日本人の女性に出会いました。その方はもう還暦を過ぎている方でしたが、お年も気にすることがないくらい、ポジティブでありのままで良いという風におっしゃってくれてくださり、話始めて開始10分くらいで「海外を見た方が良いよ」という風にアドバイスをいただきました。

今はカメラマンの仕事以外にも友人からの紹介で、パリコレに出るような、名だたる有名ハイブランドのモデルもされています。

この方とお話をさせていただいた、たった1時間でしたが、最後には涙が自然と出てくるくらい、私の人生の中でも、すごいインスピレーションを与えてもらったポジティブな時間になりました!

 

これからどう生きていくか(現在20歳)

私の将来の夢は、自分の名前で呼ばれる写真家になりたいという軸が中心にあります。また、自分のセレクトしたものをお店で売ったり、いろんな人が“サードプレイス”として居られる場所を作りたいと思っております。でもこれは自分の“やりたいこと”であって、その前に社会貢献できるような何かをしたいと思っております。また、海外にも2022年は行きたいと思っています。

あとは自分で自分のことを養えるのはもちろんのこと、親孝行も早くできるくらい働ける大人になっていきたいです。

 

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生い立ち~幼少期のころ~

幼少期の頃に戦時中でしたので、父は兵隊に行ってしまって、母と私たち四姉弟が栃木県の農家に疎開することになったのですが、そのときの生活が私にとっては一番ワイルドで刺激的でした。 農家は白米などごちそうを食べているのですが、疎開で都会から来た人々は粗食で、かぼちゃの種とか麻の実とかイナゴを食べたり、ふすまや糠でクッキーを作ったり、ヨモギやセリなどの野草を摘んで食べたりしていました。 農家の庭にはニワトリがたくさんいるのですが、そのニワトリの子たちと同じようなものを食べているなぁ、鳥の餌とそっくりだなぁと思ったりしていました。 でも今思えば、当時の私達が食べていたものは、現代の価値観に照らすと‟オーガニックでおしゃれな食べ物“とされているものだったなぁと思います。 終戦を迎え玉音放送を聞いたときは、私はまだ子どもでした。大人達はみな泣いていて、事態を悲観した一部の大人は「日本は戦争に負けちゃったからこれから女性や子どもは牛や馬のように働かされることもありうるのでは」などと言っていましたが、当時子どもだった私は「牛や馬のように働くってどういう仕事をするのかな?畑仕事かな?荷物運びかな?服はどんなものを着るんだろう、やっぱり茶色かな?」などと考えていて、そういう大人と子どもの物事の捉え方のギャップが、今考えるとおもしろいんですね。大人と違うことを考えるから。 子どもだったから事態を深刻に捉えずに、いろいろ工夫したりすることを考えるのが面白いなと感じていて、悲しいという気持ちはあまりなかったです。

 

 

生い立ち~小学生のころ~

終戦後、疎開先から都会に戻って大田区の小学校に転校しました。 生徒数が多い時代だったので、一つの教室で「早組」と「後組」の2組に分けて授業を受けていたりしていましたね。私は後組でした。 給食には脱脂粉乳が出ましたが、おいしくなかったので、男子が水道に捨てたりしていた光景が思い出されます。 小学生の頃、虱対策のためのDDTという薬剤を頭髪にかけられたとき、DDTの粉末で真っ白な姿になったのを友人らと笑い合うなどしたためにDDTを吸い込んでしまい、スーッとした感覚と変な味がしたのを覚えています。 道に迷って迷子になったときなど、そのときDDTを吸い込んだせいにしちゃたりして(笑)

 

 

生い立ち~家族について~

その時代の子どもって、下の兄弟をおんぶしますよね。私も学校から帰ってくると、母親から弟を背中に乗せられて、ずーっとおんぶしてましたね。弟をおんぶしたままなわとびをして遊んで、私は縄を飛べているのに弟の足がひっかかって失敗したり(笑) お菓子を食べさせるときも、背中におぶった弟に肩越しで食べさせたりして、肩越しに弟がおかしを食べるポリポリという音がしていた記憶があります。 先日、弟と一緒に街を歩いていたときに歩き方を注意したのですが、そのとき弟は「姉貴、僕はもう70だよ」と言ったんですね(笑) 思わず「ついこの間までおんぶしていたのに、もう70歳になったの!?」と言ってしまいました(笑)

 

 

生い立ち~中学時代~

大田区の中学校に進学して、私の人生で一番楽しい期間を過ごしました。 学校の裏にライオン池と呼ばれる池があり、毎日の放課後にそこでお友達とお姫様ごっこをしていて、私はディレクター役で、お友達が姫役や王子様役をやっていました。お姫様のいるところに向けて王子様が走ってくるといったシンプルなものでしたが、道が悪いために王子様役が颯爽と走ることが出来ず、その様子にみんなで大笑いするなど楽しい時間だったことが思い出されます。 先生からメガホンで「早く帰りなさい」と言われ、「はーい!」と元気よく返事するものの、遅くなるまで遊んでましたね(笑) 個性的ですばらしい先生方が揃った中学校だったので本当に楽しくて、私は学校が大好きでした。机といすと先生が揃っていれば天国といった気持ちでしたね。

 

 

高校時代

その後は高校に進学し、セーラー服で通学していました。 高校在学中に進路を考える時期になり、先生には芸大を進められましたが、私は四人姉弟の一番上なので早く働いて家計を助けたいと思ったため就職を希望し、筆記試験や面接を経て銀行に就職が決まりました。

 

 

銀行への就職から、絵の仕事へ

銀行に就職して1年ほど勤めた頃、お昼休みに屋上から下を眺めていたら、スーツを着た小ぎれいなサラリーマンが行き交う中に、ゴミ拾いをしているおじさんの姿を発見しました。世の中にはさまざまなお仕事があるなぁということと、自由そうでいいなぁと感じたことが強く印象に残っています。 当時お勤めしていた銀行はとても素敵な素晴らしい職場だったのですが、一方でゴミ拾いのおじさんの姿が目に焼き付いて忘れられなくなり、いわゆるきちっとした堅い仕事以外にも世の中にはさまざまな生き方があるなぁという風に思うに至りました。もともと絵を描くことに憧れていたので、銀行勤めを続けるか、絵の仕事に挑戦するか迷いが生じました。 今では考えられないことですが、当時の漫画雑誌にはファンレターの宛先として作家の住所が載っているような時代でした。私は少女雑誌の作家へのおたより募集ページを見て、松本かつぢ先生に「絵を描く仕事に就くにはどうしたらいいですか?」という内容の手紙を書いたところ、二子玉川のアトリエに招かれてつながりができたのです。 そこで松本かつぢ先生のアトリエに出入りする編集者の方々ともつながりができ、小さな絵のカットの仕事をもらえるようになったこともあって、銀行に退職願を出しました。ところが銀行からは辞めないようにと強く説得され、銀行勤めを辞めていいものか大変悩みました。松本先生にも「銀行を辞めちゃって大丈夫でしょうか」と相談してみたところ、先生は「そんなこと誰にもわからない」と答えてくださり、それで決心がつきました。誰のせいにもしないという決意の元、両親の前で正座をして「後悔しない、愚痴を言わない、経済的な負担はかけない」という3つの誓いを立てて、退職しました。

 

 

絵は基礎基本が大事

絵の基本を学ぶために、松本かつぢ先生のお知り合いのご紹介で、洋画家の猪熊弦一郎先生のスタジオに通いました。部屋の中央にオールヌードの女性がいらっしゃって、画家の皆さんがサロンのように集まって、ヌードのクロッキーを描いていましたね。 始めは顔だけを描いていたのですが、そうしましたら「せっかく人体があるのに顔だけ描くのはもったいないと思いませんか」と注意され、身体の全部を描くようになりました。 そのころに描いたヌードクロッキーはたくさんあります。これを4頭身の女の子のイラストにアレンジするのは難しく、どのように生かしていこうかというのが悩みでしたが、腕の曲げ方などをはじめとしてやはり参考になっている部分はたくさんあり、ありがたいと思っていましたね。 そのように過ごしながら、あるとき急病の作家の代わりに「少女クラブ」の挿絵を徹夜で描いて掲載されたことがきっかけで、それ以降は仕事の依頼が増えましたね。

 

 

作品制作のこだわり

私の描くイラストの女の子はウィンクをしているんです。いま落ち込んでいる女の子達に対して「大丈夫よ。いまに良くなるから」という励ましのメッセージを込めて描いていることは確かです。 またプロとして、印刷したときにどのようになるか、というのも考えながら描いていますね。 創作をしていて特に難しいのは、変わりゆく世の中に合わせていくことと、変わらない自分らしさを求められるということと、両者のバランスをどのようにとるのかということです。いつも試行錯誤しています。

 

 

父の言葉

私の父は普段は無口な人でしたけど、編集部から届く封書の宛名に「田村セツコ先生」と書かれているのを見て、私がいい気になるのではないかと心配していたのが印象に残っています。 私は「先生」というのはただの呼び名だというのはもちろんわかっているし、そんなことでいい気になんてならないから心配はいらないのですが、親って面白いもんだな、そういう心配をするんだなと(笑) そのときの父は「本当は“先生”というのは、なんでも教えてくれる編集者の方だよ。」と申しておりまして、私も、本当にそうだな、良いアドバイスだなと思ったものです。

 

 

脇役が好き!

お姫様って退屈だろうな、お姫様より召使いの方が楽しいだろうなぁと、幼いころから考えていました。シンデレラもこき使われているときの方がいろいろと工夫できて楽しいんじゃないかなと思います。 いつも絵を描くときはきれいなお姫様を書くんですけど、脇役を描く方に熱が入りますね。 相撲を見ていても力士ではなく呼出(よびだし)※をつい目で追ったり、歌舞伎を見ていても黒子のひとに注目して主役を見ていなかったり。目立たないところで仕事をちゃんとしていてカッコイイなぁと。 ※呼出…大相撲での取組において、「呼び上げ」や土俵整備や太鼓叩きなどの競技進行を行う者のこと。

 

 

カルチャースクールの生徒さんとの交流を通して

カルチャーセンターの絵日記の講師を十数年ほど続けています。そこの生徒さんたちの発想が本当に面白くて思わずハッとすることもあります。 例えば、あるとき生徒さんが木の陰に身を隠す女の子を描いているときがありました。生徒さんがおっしゃるには、女の子がオオカミを待ち伏せている様子を描いたそうです。赤ずきんちゃんはお母さんから「知らない人と口をきいてはいけませんよ」と教えられていると思いますが、オオカミの目線でみると、オオカミのお母さんも我が子のオオカミに対して「かわいい女の子に近づいてはいけませんよ。危険な目に遭いますよ。」と教えているんじゃないでしょうか。 オオカミにはオオカミの立場がある。視点を変えてみると面白いなということに気づかされました。

 

 

おばあさんは毎日が冒険!「白髪のアリス」

「アリス」と聞くと少女のイメージがありますが、年を取ってくると逆に親しみを感じるのです。おばあさんになると、あら転んじゃったどうしましょうとか、眼が霞んできたとか、毎日そういう未知の体験に直面していかないといけないので、毎日冒険しているようなものです。そのようなおばあさんの冒険を表現した「白髪のアリス」というキャラクターをモチーフに、展覧会を予定しています。

 

 

若い人たちへのメッセージ

どうかのびのびと生きてほしいと思います。

 

 

日本の高齢者の方々へのメッセージ

これからも今まで出会ってなかった自分に出会ってください!

 

若宮正子さん

生い立ち

1935年4月に生まれ、物心つく前から戦争一色の中で育ちました。小学校に入学する前から日本は開戦していて、爆撃なども経験しながら少女時代を過ごし、9歳のときに最後の学童疎開児童として親元を離されて山奥に行きました。充分な食事ができず飢餓を体験するなど大変な思いをしましたが、終戦後は比較的普通に過ごすことができ、高校卒業後は銀行に就職しました。

よく「若宮さんはなぜ大学に行かなかったんですか?」と尋ねられるのですが、当時の日本は女性が大学に進学するということはあまり一般的ではなかったんですね。高校に行くか行かないかを悩むといった雰囲気で、大学に行くといったことを考える人はあまりいなかったと思います。

職業生活について

高校卒業後の18歳から定年まで銀行に勤めました。当時のオフィスワークは、紙幣を指で数えたり、そろばんで計算したり、お客さんの通帳の表紙に手書きで文字を記入したりといった、江戸時代と変わらないような仕事でした。仕事が遅かったため先輩達からは「まだ終わらないの?」とよく叱られていましたが、機械化やコンピューター化が進むにつれて次第に叱られなくなりました。どんなに作業が早い人でも機械より早いということはないですから。

よく「若宮さんはなぜそんなにコンピューターにご執心なの?」と尋ねられるのですが、機械やコンピューターは私にとって恩人のようなものなのです。

世界最高齢のアプリ開発者へ

81歳のときに「hinadan」、85歳のときに「nanakusa」というアプリを開発しました。

「hinadan」の開発によって世界最高齢のアプリ開発者として、にわかに有名人になりました。もともとプログラマーではありませんでしたので、たくさんの方々にわからないことを質問して、聞いて聞いて聞きまくって大騒ぎして開発することができました。

若い人達はアプリ開発というと即プログラミングという風に考えてしまいがちです。「コーディングができないからアプリは作れない」という声をよく聞きます。

しかし、プログラミング自体はプロに依頼することもできますし、最近は様々なプログラミングツールが登場したことでノーコードでもアプリ開発できるようになるなど、プログラミングそのものはどんどん簡単になってきています。

現在の子ども世代が大人になる頃にはアプリ開発するのにコーディングなどは必要ない時代になっているかもしれません。

面白いアプリを作るにあたってはプログラミングよりもむしろ、“何のために” “どういう目的で” “どういうアプリを作りたいのか”という部分の方がはるかに大事です。

例えば映画を作りたいと思ったからといって撮影ばかりして映像をいくら増やしても映画にはなりません。何のためにどういう映画をつくるのかという部分こそが大切であり、それに即したシナリオがあって初めて映画を作ることができると思うのですが、それとまったく同じことです。

小学校でプログラミングを教えてほしいと求められることもあるのですが、それをやるとプログラミングだけを教えることになってしまうのであまり好きではないのです。

もちろんプログラミングを全く知らないとアプリを作ることはできないのですが、それだけに終始するのではなく美術も音楽も国語もあらゆることが大切ですし、様々な体験をすることが大事です。 何かを作りたいと思うこと、作りたいもののアイデアを思いつくことは、人工知能にはできない、人間にしかできないことです。それこそが最も大切なものなのです。

最高齢アプリ開発者として突然 有名人に

81歳のときにアプリ「hinadan」を開発したことで、世界最高齢アプリ開発者として突然に有名人になりました。そのため普通の人がめったに行けないようなところに行ったり、めったにお会いできないような方にお会いできることもあるので、そういった自分が得たものを多くの方々に伝えるために、国内外での講演会、執筆、ライブ、その他もろもろの様々な手段で情報発信をしています。

2019年は国内外で184回の講演会を行いました。2日に1度という壮絶なペースで講演会をしていたことになりますね。新型コロナ・ウィルスが感染拡大した2020年は主にzoomでの講演会を行っていました。

2018年にはニューヨークの国連本部に招かれて演説したこともありますし、2021年には国連人口基金においてオンラインで演説しました。

また私が執筆した「老いてこそデジタルを」という書籍は2回増刷になるなど売り上げが伸びているようで、その他にも多数の書籍を出版しているので、お金が入ってくるようになりました。出版で稼いだお金は、お金がなくて難儀しているNPO法人に寄付して活動資金として使ってもらっています。

エクセルアート(創作活動)

エクセルは「コンピューターとは何か」を理解するために重要なソフトなのですが、シニアにエクセルを教えようとすると敬遠されがちです。そこで「楽しい入門編」として手芸の好きなシニア女性向けに『エクセルアート』を創案しました。

『エクセルアート』とは、エクセルの「セルの塗りつぶし機能」や「罫線の色付け機能」を使って自分だけの模様を作る創作活動です。エクセルアートで作った模様を布地に印刷して裁縫が得意な友人に衣装を作ってもらったりしているほか、作成した模様で団扇を作るワークショップも国内外で行っています。

『徹子の部屋』(テレビ朝日系列のトーク番組)に出演したときは、ちょうどクリスマスの時期でしたのでクリスマスツリーのデザインのブラウスを作って着ていきました。

園遊会に招かれたときは、自作のエクセルアートを基にアイロンビーズとLEDライトを組み合わせて作ったピカピカ光るハンドバックを持っていったところ、当時の皇后陛下(現・上皇后陛下)がご興味をお持ちくださって、このバックを話題にしてお話をすることができました。

VRについて

VRはリハビリなどを始めとしてさまざまな用途に使われ始めていますし、これからの時代は交流の手段にもなっていくと思います。とても興味を持っているので、これから教えてもらって始めていくつもりです。興味があったらさっさとやっちゃう、面白いものを楽しむということが好きです。

「年寄りだってやればできる!」

インターネット上に展開する高齢者の交流サイト「メロウ俱楽部」で副会長を務めています。メロウ俱楽部は「年寄りだってやればできる!」をモットーとしていて、小学生から90代まで幅広い年齢構成で楽しくやっています。活動をしていて気づいたことは、70代の終わり頃までにデジタルアレルギーをなくした人は、90歳を超えてもデジタルを使いこなすことができるのだなということです。

インターネットを社会のインフラに 誰一人取り残さないデジタル改革を

日本のシニアの方々にデジタルを使いこなしてもらうためには、デジタルが役に立つ素晴らしいものだということを知ってもらうのが大切だと思います。テレビや新聞などの報道では、ネット・トラブルやインターネット上の事件などネガティブな面が取り上げられることが多い一方で、ポジティブな面が取り上げられることは少ない傾向にあります。そういった理由もあってか、デジタルを使用することについて「手抜きをするために機械で間に合わせるのだろう」という印象を持つ人もいます。

しかしデジタルを活用すると、人手をかけていた時よりもはるかに迅速に、よりきめ細やかに寄り添うことが可能になります。デジタルは決して冷たいものではないのです。むしろ人のささやかな善意を生かして役立てるようなことにも手を貸してしてくれる優しい存在なのです。 日本のシニアの方々に伝えたいことは、70代80代は育ち盛りの伸び盛りということです。決してあきらめないで、潜在能力を無駄にせず生かせるように過ごしてほしいなと思います。