ハイカラな家庭で育った幼少期
私の幼少期はちょうど高度成長期の真っ只中でした。建てられたばかりの県営住宅に住んでいたため、そのころは珍しかった水洗トイレが家にあるなど、その当時としてはハイカラな生活をしていました。両親も新しい物好きで、また一人っ子であったため両親の愛情を一身に受けてのびのびと育ちました。
父は製薬会社のMRをしていて出張が多かったですね。当時は今の感覚からすれば大雑把な子育てをする家庭が多かったですが、父は当時では珍しい“ニューファミリー”的な価値観を持っている人で、私を大事に育ててくれました。
小学校の頃は、父がいろいろなところに連れて行ってくれたため物知りになり、同級生たちから頼られるなどして学級委員も務めました。
母は洋服づくりが好きで、私が子どもの頃はよく母の手作りの洋服を着ていました。
母は新しいものを取り入れるのが好きで、お弁当でも当時は珍しかったチキンライスを作ってくれるなどして同級生に珍しがられました。
母方の祖父は町医者をしていて、遊びに行くと看護婦(今でいう看護師)や祖父の兄弟などたくさんの大人がいて、みんなに可愛がってもらったり、15人位の大所帯で食事をしたりしました。
好きなものにとことん取り組む!
子どものころから電車が好きでした。中学校3年生くらいからカメラに触るようになりました。高校一年生の頃、蒸気機関車がなくなり電車に移り変わってしまうということで、鉄道写真を撮ろうと思い立ち、撮り鉄になりました。
私の節目 ~報道に興味を持ったきっかけ~
私が小学校5年生のときに日本でオリンピックが行われました。時代が一気に変わるタイミングでした。小学校で私が所属していたクラスでは、新聞の内容を発表する新聞発表会の時間があったのですが、教師から新聞発表会の委員に指名されました。
政治や社会、地理や世界地図などに興味があったこともあって、新聞発表会のキャスターとして活躍したことがきっかけで、人に情報を伝えることの面白さを知りました。
そのようなきっかけもあり、報道に関わる仕事をしたいと考えるようになりました。 知識や知力を高めると、より面白いコミュニケーションができるようになりますね。
私の節目 ~カメラマンへの道を歩み始める~
報道に興味を持っていたことから、高校生のとき父に新聞記者になりたいと相談しました。父からは、写真がうまいのだからカメラマンを目指して写真の道から報道に携わるのも良いのではないかと助言を受けました。その結果、日本大学芸術学部写真学科に進学しました。
私の節目 ~人生の転機となった一枚~
27歳のころ、ホテルニュージャパンで火災が起きましたが、たまたま私は広尾に住んでいて現場に近かったことで夜中の3時に電話がかかってきて、急ぎ現場に向かいました。
現場では多くの報道陣が集まり、私以外の報道写真家も30人くらい右往左往していました。その中で私は、ビルが燃えている様子ではなく、すぐ近くのビル裏の路地で医師が亡くなった方の瞳孔を調べている様子を撮影しました。
その写真が新潮社のフォーカスという写真週刊誌のトップ記事を飾りました。
編集長からは「俺はこの写真を待ってた」と褒められ、そのトップ記事は私の写真をメインに据えて、私の写真からタイトルをつけられました。
この出来事をきっかけにして、現場によく行かせてもらえるようになり、良い写真が撮れるようになりました。活躍すると機会が増えてもっと活躍しやすくなるのです。
この出来事を節目にして自信がつき、大きく飛躍することができました。
私の節目 ~大スクープ写真~
1985年に御巣鷹山で飛行機が墜落する事故が起きました。
私はその現場に一番乗りで到着して大スクープ写真を撮影できました。そのスクープ写真はフォーカス最大の功績と言われています。
アメリカでの日々
二十代後半の頃から6年間くらいフォーカスで良い待遇を受けて重用してもらっていました。しかし、私が30代前半くらいの頃、写真週刊誌の業界では新しい雑誌ができたことなどから競争が激しくなり下品なスクープ合戦が行われるようになりました。そのような中で私は下品なスクープ合戦に悩むようになりました。「このまま終わりたくない、今の状態からさらに次の発展的なことをしたい。」と考えるようになり、フォーカスを辞めてアメリカに行きました。
33歳で渡米してから25年間くらいアメリカで仕事をしていました。次から次へと仕事が来て、30代40代はあっという間でした。日本ではない別の世界を見たということは大きかったですね。
私の座右の銘
「かけた情けは水に流せ。受けた恩は石に刻め」という言葉があります。
長く人付き合いをしているといろいろなことがありますが、世話になったことを覚えておく、お礼を言う、ということをすると自分も相手も気持ちが良いものです。
これからをどう生きていくか
いま大学で講師をやっていて、若い人といろんな話をする機会があります。そのことが学生たちの何かのヒントになればよいなと思います。
過去の出来事について「ああすればよかった、こうすればよかった」と後悔しても、過ぎたことは戻らないので、あまり気にせずストレスを溜めないように生きたいです。
いまコロナでデジタル化がますます加速し、デジタルの価値が上がっています。このことは私にとって追い風です。テクノロジーが未来を救うというのが私のポリシーです。
頭脳をフレキシブルにして次から次へと勉強していかないといけないと思っています。今やっていることをずっとやっていくだけでなく、さらに進化していかないといけない。最先端のものに対応していくのは面白いです。
私はあと数年で70歳の節目を迎えます。
自分に何ができるのか、どれだけ自分の付加価値を持っているのかが重要です。70歳に向けてあと数年が勝負だと思っていて、自分の付加価値や持っている価値を増幅させていく、よりパワフルにさせていくということをやっていきたいです。
また、健康に気を付けて、いつまでも元気で働いて家族に迷惑をかけないようにしていければいいなと思います。