田村新吾さん(74歳・男性)
生い立ち
写真を通じて3歳ごろの情景を思い出す。思うに幼児のころ眺めた風景、遊びがすでに未来を指し示していたように思う。幼児は未来人、30年後の私がすでにいた。
昭和21年生まれ、東京の蒲田育ち。家の前の草むらの四季が私の遊び場、夢の舞台だった。父と映画をみては、草むらでおもちゃの自動車を手押しして、ジャングル探検を楽しんだ。姉とクリスマスに行った教会。そこで初めてキリスト像を見た時、自分はキリストの生まれ変わりと思い、かわいそうな人を街で見るとため息をついた。姉が買ってくれた発明発見物語に夢中になり、自分は発明家と明言し、自分の考えたアイデアが、すでに出来ていることを知って悔しがった。幼いころは食が細く栄養失調、小学校では小児性大腸炎、気管支炎と病院通いの日々。弱い人への愛情が芽生えた。絵の好きな少年だった。無心で描いた絵が、たびたび地区の展覧会で入賞した。賞を誇るよりも、商品の絵具に喜んだ。家の周りは町工場。工作機械に興味を持ち、工員の作業着に憧れた。転機が来たのは中学3年で、父が突然小金井市に転勤と引越し。武蔵野の林の中を自転車で走り回る日々。高校1年生で13センチ背が伸びる。健康になり、考えかたもしっかりしてきた。
職業人生
早稲田大学理工学部を出ると幼いころの蒲田の近くの五反田にあるソニーに入った。念願の作業着と工作機械で製品を開発した。35歳で課長、40歳で部長になった。部下を育てることと、経営陣に報告の日々。退職すると大学の教鞭を通じて、町の若者との語らいの中で創造的人材育成と起業のコーチングをしている。後世に残すテーマとして、ソニーの物語を執筆している。結局は幼い時の草むらの延長に今の私がいる。
家族
妻一人、息子一人。妻は会社で隣の課にいた。仕事が正確で、相手を立てる質。自分には出来過ぎた妻である。息子は考えこむのが好き。多くの本を読み、プロではないが哲学者肌。
私の座右の銘
立ち寄れば発見あり発見あれば創造あり
伝えたいこと
一個の人間が社会を作っています。一億個あると一億人になります。一人一人の小さな気遣いが集まると一億個の気遣いになり、国を動かし、世界を動かします。私はその一個になりたい。伝えたいことは「今を面白く」です。死ぬ時はその時を面白く人生の幕の外に消えたい、です。