生い立ち 〜子ども時代〜

僕が生まれたのは産院ではなくて、家で助産婦さんが取り上げてくれたそうです。その時父は帝劇(帝国劇場)に行って演奏をしていたので、家には母と助産婦さんだけ。夜になって父が帰ってきたら、赤ん坊が生まれていた、ということです。

小学生の時は色んなエピソードがありましたね。母はよく小学校に呼び出されて。「お宅のお子さんは授業中でも気持ちがどこかにいっていて、空想の世界に入りこんでしまう」って。それにお習字は紙からはみ出して書くし、絵はぐしゃぐしゃに描くし(笑)

でも母は、「いいんだよ。習字なんてはみだすくらいの方が面白い」といって理解してくれました。父もそうでしたけれど、型にはまるような感じではなかったんです。

家にはアップライトピアノが2台あって、生まれてからすぐに音楽を聴く生活でした。父と母は家でピアノの教室をしていたのですが、戦後のその時期はピアノブームでしたから、2人合わせて1週間に100人以上の生徒が来ていました。そうすると家に居る場所がないから、「子どもたちは外行って遊んでこい」と言われるんです。それで、外に行って遊んでくると足が泥だらけになるので、縁側にあるバケツで足を洗って、おやつのきゅうりやトマトを食べて、ピアノを弾く、という感じでしたね。

 

生い立ち 〜学生時代〜

大学は東京藝大を受けたんですが、1年目は落ちてしまって。父親はがっかりしてましたけど、僕は嬉しかったですね。1年間も自由にできることがありがたかった。高校時代は学業と音楽の両立が大変でしたから、浪人していた1年は本当に素晴らしかったと思います。自分の好きな映画を見たり、演劇を見たり、色んなことをして。自分の好きな音楽を自分で見つけて。そうして翌年藝大に入ったんです。

本も、自分が好きな本を古本屋で手当たり次第買って読んでいました。そしてある日、北欧の文学に出会ったんですね。読んでみたらとても良い雰囲気があって、それを気に入って。それからは北欧文学はたくさん読みました。北海道の室蘭で育った母の話を聞いていたこともあり、北への憧れがどんどん育っていって、とうとうフィンランドにまで行っちゃいました(笑)

 

卒業後、フィンランドへ

藝大を卒業後にフィンランドへ行くと言ったら、皆びっくりしたんです。音楽を勉強するにしてもキャリアを築くにしても、ヨーロッパやアメリカに行くのが普通の考えでしたから。それがなぜ北の端の、何もないところに行くの?って。反対したり呆れられたりしました。

でも僕は、フィンランドに行って音楽を勉強しようというつもりはなくて。ともかく音楽を勉強するのは当たり前で、それはどこに行ってもできる。僕は先生もいらないし、自分で探していく、という考えでしたから。北欧の文学や絵画、豊かな自然といった独特な雰囲気に惹かれていたので。フィンランドは日本からもヨーロッパの中心からも適度に距離がある。そこへ行って、自然の中で静かに自分を探していくことに憧れていたんでしょうね。

そうしてフィンランドに拠点は置きましたが、60年間の演奏生活ではアメリカ、南米諸国、ロシア、ウクライナ、ヨーロッパとアジアの全域、インド、オーストラリア、中東など世界を広く演奏して歩きましたよ。

 

脳溢血になってから 〜次のステップへの2年〜

2002年の演奏会直後に脳溢血で倒れ、右半身不随になりました。

脳溢血になってピアノが弾けなくなったことを、みんな物凄くドラマティックに考えるんですよ。「ピアノが弾けなくなった」「弾けなくてどうするんだろう」と。そしてみんな、「もうこれからはゆったり暮らしていけばいいよ」って、言うんです。

確かに右半身不随になって、ピアノが弾けなくなった。だけど、みんなが言うほど「ピアニストとして終わりだ」と僕は全然思ってなかったんです。だからといって右が動かないからそれをカバーするために左手でやろうとか、右のリハビリをどんどんしようとか、そんなことも考えませんでした。

でも今になって思うと、病後の2年間の何もしていなかった時間がすごく良かったと思うんですよ。それまでがすごく忙しくて激しい生活でしたから。絶えず演奏会で世界中をとびまわって、CDを100枚以上作って。倒れたのは、ちょうどデビュー40周年の記念公演のツアーを終えた翌年でした。ある日突然、時空が途切れて何も無くなった。だけど、その空白のような2年間は実は空白ではなくて、次のステップに行く過程であって。その2年間が得られたのはすごく良かったと思います。1年間浪人していた時と同じです。その期間に自分のあり方や生き方を考えることもできた、そして、何もしていなかったその月日こそ、自分はいつか必ずピアノを弾くことに戻っていくのだという気持ちを強くしていき、新しい一歩を踏み出すための大事な時間だったのだと、思っていますよ。

 

演奏活動への復帰 〜左手で弾く〜

倒れて2年の間は、失意の日々を過ごしたという記憶もないけれど、リハビリを懸命にしたということもなくて、まして、左手だけでピアノを弾こうということも考えていませんでした。でもある時、偶然左手のピアノの楽譜を見て。その瞬間、「あ、これでやっていけるんだ」と思ったんです。「これが自分の行く道なんだ」とわかったのです。それは一瞬のひらめきで、自分でも本当に不思議だと思います。2年の時間は自分に必要な時間だったのでしょうね。

それから復帰までの道のりはすごい勢いでしたよ。その翌々日に、日本にいる作曲家の間宮芳生さんに「一年後に日本でリサイタルをすることにしたけれど、左手の曲はすごく少ないから何か曲を書いて欲しい」という内容のFAXを送りました。リサイタルをするイメージが湧いたら全然疑わなかったですね。そういうのが僕の性格なんです。

間宮さんからの返事はその二日後に来ました。「喜んで書きます」「これは僕からのお祝いです」と。そして、25分くらいかかる大きな曲を書いてくださったんです。それが日本で生まれた最初の、左手のためのピアノ曲でした。

それともう一人、長年の友人でもあるフィンランドの作曲家ノルドグレンさんにも作品をお願いして、彼も20分くらいの曲を書いてくれました。僕のために書かれたこの二つの作品を軸としたプログラムで復帰の演奏会を全国で行いました。

左手での活動が新しい一歩とは言ったけれど、その一歩を踏み出した自分は、それまでの自分のあり方と実は全く変わっていないんです。相変わらず己の道を歩き続けているということで。2004年から左手だけで演奏はしていても、音楽をやることには変わりはなく、だから、片手だけで弾いているという意識も感覚もないんですよ。

 

音の世界

夢を語ってくださいと言われることが多いのですが、僕は夢というのを持ったことがないんです。生まれてから、自分がやっていることがどんどん先へ広がっていって、それを追いかけているうちに、こういうことをやりたいということが自然にわき出てくる。それができると、今度はもっとやってみようとか、新しい形で色々できるだろうとか。そういうのが自然発生的に生まれていくんですよ。

コロナ・ウィルスで、演奏会ができなくなり、私の生活にも大きな打撃となりましたが、僕にとっては音楽を抜きにしては人生は考えられない。毎日ピアノに向かって、音がたち昇ってくるたびに「あぁ、生きてるんだ」と感じます。ひとつの音から夢が、素晴らしい世界が広がっていくといいますか。その広げていく作業が楽しくて、それが生きている証なんだと思っています。

僕にとって音楽は生きることと一緒です。生まれた時からずっと、両親が楽器をやっていて、生活の中に自然に音がありました。そして、子供のころから、音楽を通じて色んな世界に入っていくのが染みていましたから。だから今でも音の世界で過ごすことが一番です。

 

フィンランドの学校で

フィンランドでも時々、学校で演奏をすることがあります。フィンランドの学校のコンサートは、ジャズバンドやポップスなどの賑やかな内容が多いので、僕が何年か前に頼まれて行った時に、先生たちから「今日は生徒たちが落ち着かないかもしれないけど、我慢なさってください」と言われまして。

だけど、僕がピアノを弾き出した途端、生徒たちはみんな静かになっちゃった。砂に水が染み込むように、音楽がすうっと心に染み込んでいくように子どもたちは感じたんでしょう。

学校の先生たちはみんなびっくりして。後になって送ってくれた感想文には、「舘野泉ってのは良い人だ」という感想が多かったです。音楽を弾いていて“良い人だ”って言われたのは初めてでしたね(笑)

 

メッセージ

音楽や芝居などの芸術は“不要不急のもの”ということをよく言われますね。

でも、その世界と交わることで、色んな夢も広がるし、活動も広がっていくわけですから、

そういうものほど大事で、生きていくことの価値があるのだから、どんどん接していけるようにしたいですね。

音楽(クラシック)は格式が高いともよく言われますけれど、そうではないですよ。誰もが生きていて感じることをやっているだけで。その中で自分がそれぞれ受け取れるものを拾っていけばいいだけ。何がどうあらなければいけないってものではないと思います。

法律と遺言について