昭和43年 大学を卒業後、大手通信機器メーカーに入社し仕事が合わず4年で某テレビメーカーに転職した。新しいテレビ方式で性能もよく途中入社が多かった。凄まじい勢いで成長し海外生産進出も盛んであった。残業代・ボーナスも前会社の比でなく、職場も自由闊達で楽しい日々を過ごした。

当時の転職は少なく中に、先輩にもそのような人がおり若気の勢いでチャレンジした。しばらくしてから、コンピューター用ディスプレイを世界中にOEM販売することになり機構設計メンバーとしてチームに加わった。ヨーロッパ及びアメリカのコンピューターメーカーに営業と一緒に訪問しビジネスの獲得に一役担った。

IBM、HP、サンマイクロ、アップル、DELL、その他に訪問した。開発中は 客先の技術者と一緒に妨害電波測定の為に山の中のサイトに数日通ったり、アップル本社のあるサンホセでは 近くに住む学生時代の友人宅に数度お邪魔したり、色々見聞を広めることができた。アップル創業者ステーブ、ジョブスとの打ち合わせにも参加した。

セット全体を担当するようになり、海外生産が進み自社工場、部品メーカーに出かけることも頻繁になり35年前頃のASEAN・中国の姿を見ることができた。シンガポールでは日本の中古自動車に扇風機を付けて走るのが殆ど、上海空港の職員は人民服。今思えば隔世の感である。

定年後も海外に出かけることが多く、長期間にわたってあちこちの海外を見るができたのは代えがたいものがある。アジア諸国の急激な発展には驚くばかりです。学生時代から山登りをやっていたので、友人とアルプスの3000メートル級の山々を登ったこと、今はサークル仲間と山登りを楽しんでいる。

人生の想いでの一コマが 時々目に浮かんでくる。

ハイカラな家庭で育った幼少期

私の幼少期はちょうど高度成長期の真っ只中でした。建てられたばかりの県営住宅に住んでいたため、そのころは珍しかった水洗トイレが家にあるなど、その当時としてはハイカラな生活をしていました。両親も新しい物好きで、また一人っ子であったため両親の愛情を一身に受けてのびのびと育ちました。

父は製薬会社のMRをしていて出張が多かったですね。当時は今の感覚からすれば大雑把な子育てをする家庭が多かったですが、父は当時では珍しい“ニューファミリー”的な価値観を持っている人で、私を大事に育ててくれました。

小学校の頃は、父がいろいろなところに連れて行ってくれたため物知りになり、同級生たちから頼られるなどして学級委員も務めました。

母は洋服づくりが好きで、私が子どもの頃はよく母の手作りの洋服を着ていました。

母は新しいものを取り入れるのが好きで、お弁当でも当時は珍しかったチキンライスを作ってくれるなどして同級生に珍しがられました。

母方の祖父は町医者をしていて、遊びに行くと看護婦(今でいう看護師)や祖父の兄弟などたくさんの大人がいて、みんなに可愛がってもらったり、15人位の大所帯で食事をしたりしました。

好きなものにとことん取り組む!

子どものころから電車が好きでした。中学校3年生くらいからカメラに触るようになりました。高校一年生の頃、蒸気機関車がなくなり電車に移り変わってしまうということで、鉄道写真を撮ろうと思い立ち、撮り鉄になりました。

私の節目 ~報道に興味を持ったきっかけ~

私が小学校5年生のときに日本でオリンピックが行われました。時代が一気に変わるタイミングでした。小学校で私が所属していたクラスでは、新聞の内容を発表する新聞発表会の時間があったのですが、教師から新聞発表会の委員に指名されました。

政治や社会、地理や世界地図などに興味があったこともあって、新聞発表会のキャスターとして活躍したことがきっかけで、人に情報を伝えることの面白さを知りました。

そのようなきっかけもあり、報道に関わる仕事をしたいと考えるようになりました。 知識や知力を高めると、より面白いコミュニケーションができるようになりますね。

私の節目 ~カメラマンへの道を歩み始める~

報道に興味を持っていたことから、高校生のとき父に新聞記者になりたいと相談しました。父からは、写真がうまいのだからカメラマンを目指して写真の道から報道に携わるのも良いのではないかと助言を受けました。その結果、日本大学芸術学部写真学科に進学しました。

私の節目 ~人生の転機となった一枚~

27歳のころ、ホテルニュージャパンで火災が起きましたが、たまたま私は広尾に住んでいて現場に近かったことで夜中の3時に電話がかかってきて、急ぎ現場に向かいました。

現場では多くの報道陣が集まり、私以外の報道写真家も30人くらい右往左往していました。その中で私は、ビルが燃えている様子ではなく、すぐ近くのビル裏の路地で医師が亡くなった方の瞳孔を調べている様子を撮影しました。

その写真が新潮社のフォーカスという写真週刊誌のトップ記事を飾りました。

編集長からは「俺はこの写真を待ってた」と褒められ、そのトップ記事は私の写真をメインに据えて、私の写真からタイトルをつけられました。

この出来事をきっかけにして、現場によく行かせてもらえるようになり、良い写真が撮れるようになりました。活躍すると機会が増えてもっと活躍しやすくなるのです。

この出来事を節目にして自信がつき、大きく飛躍することができました。

私の節目 ~大スクープ写真~

1985年に御巣鷹山で飛行機が墜落する事故が起きました。

私はその現場に一番乗りで到着して大スクープ写真を撮影できました。そのスクープ写真はフォーカス最大の功績と言われています。

アメリカでの日々

二十代後半の頃から6年間くらいフォーカスで良い待遇を受けて重用してもらっていました。しかし、私が30代前半くらいの頃、写真週刊誌の業界では新しい雑誌ができたことなどから競争が激しくなり下品なスクープ合戦が行われるようになりました。そのような中で私は下品なスクープ合戦に悩むようになりました。「このまま終わりたくない、今の状態からさらに次の発展的なことをしたい。」と考えるようになり、フォーカスを辞めてアメリカに行きました。

33歳で渡米してから25年間くらいアメリカで仕事をしていました。次から次へと仕事が来て、30代40代はあっという間でした。日本ではない別の世界を見たということは大きかったですね。

私の座右の銘

「かけた情けは水に流せ。受けた恩は石に刻め」という言葉があります。

長く人付き合いをしているといろいろなことがありますが、世話になったことを覚えておく、お礼を言う、ということをすると自分も相手も気持ちが良いものです。

これからをどう生きていくか

いま大学で講師をやっていて、若い人といろんな話をする機会があります。そのことが学生たちの何かのヒントになればよいなと思います。

過去の出来事について「ああすればよかった、こうすればよかった」と後悔しても、過ぎたことは戻らないので、あまり気にせずストレスを溜めないように生きたいです。

いまコロナでデジタル化がますます加速し、デジタルの価値が上がっています。このことは私にとって追い風です。テクノロジーが未来を救うというのが私のポリシーです。

頭脳をフレキシブルにして次から次へと勉強していかないといけないと思っています。今やっていることをずっとやっていくだけでなく、さらに進化していかないといけない。最先端のものに対応していくのは面白いです。

私はあと数年で70歳の節目を迎えます。

自分に何ができるのか、どれだけ自分の付加価値を持っているのかが重要です。70歳に向けてあと数年が勝負だと思っていて、自分の付加価値や持っている価値を増幅させていく、よりパワフルにさせていくということをやっていきたいです。

また、健康に気を付けて、いつまでも元気で働いて家族に迷惑をかけないようにしていければいいなと思います。

steve jobs
撮影:小平尚典

 

サッカーに取り組んだ少年時代と高校時代の節目

小学校から高校生まで11年くらいサッカーをしていました。サッカーの練習は厳しく、レギュラーになったりならなかったりで悔しい思いも経験して、負けん気が生まれた子ども時代です。

高校生のときは、「人生何があるかわからないので、大学に行ったら絶対に勉強しよう、手に職を得よう」と心に決めました。大学に入ってからいろいろと資格について調べて、弁理士試験を受けることにしました。

人生で初めて「知的財産権」「知財」と出会ったきっかけ

私が高校生のときに、「阪神優勝」という商標が出願登録された事件がありました。

阪神タイガースが十数年ぶりに優勝するのではないかと言われていた中で、千葉県の男性が「阪神優勝」の商標権を取得しました。

知的財産の世界では個人が大きな組織と対等に渡り合うこともある、という点に興味を持ちました。その事件がきっかけになり、弁理士を知ったような気がします。

知財のこと、弁理士の仕事、もっと広めるために

知財の実務を10年以上やってきて、知財はあまり普及していないと感じています。難しいものを難しい表現で伝え続けてるから一般に普及しないのではないかと思います。正確さが求められる仕事なので難しい表現になってしまうのは仕方ない部分もありますが、わかりやすく伝えつつも正確さを保つように常に工夫しています。

普及のためには知財教育というよりは、エンタメ寄りでやりたいなと思っています。知財のことをわかりやすく噛み砕いて伝える、楽しんでもらう、ということをしていきたいです。その一つの活動として最近はYouTube(ゆるカワ♡商標ラジオ)を始め、業界外の友人と商標の事例についてゆる~くトークしています。

「AI vs 弁理士 ~商標調査対決 ~ AIは弁理士を超えるのか!?」というイベントに出場したりもしました。AIと人間とで三回戦の勝負を行い、それぞれ別々の弁理士が担当しました。そのうちの一人が私です。

まず知財に興味を持ってもらって、興味を持ってもらった先に重要性を認識するところに辿り着くのではないかなと思います。

みんながみんな知財のことを知る必要はないのかもしれませんが、やはり必要な人にとっては、商標登録などの知財に関するアクションをしておいた方がいいということを理解してもらいたいなと。その入り口として、まずは楽しんでもらいたいと思っています。

考え方や趣味など

アドラーの考え方には影響をうけているかもしれません。

見返りを求めない、ギブ & ギブの精神。怒るという行為は相手をコントロールしているだけ、ということを常に考えるようにしています。

決まった趣味はないです。そのときどきでけっこう変わります。以前はカラオケによく行っていましたが、コロナ禍になって行かなくなりましたね。

ヨガもやってみました。映画はあまり見ませんが、ドラマや漫画、アニメを見ることはあります。漫画もハマったら一気に読みます。ハマるとガッとやるタイプです。

決まった趣味というものはありませんが、知財に関する判決・審決について調べるということはずっと継続してやっています。

私の交友関係

もともとは深く狭い交友関係でいきたいと思っていたはずですが、最近は少し変わってきました。もともとは人と話すのも得意ではなく、なかなか心を開けないタイプでした。しかし、仕事を通じてだんだんコミュニケーション能力がついてきて、自分の考えの軸ができてきて、前よりうまく自分を表現できるようになってきました。

そうなってくるにつれて、新しく出会った人と話すのも楽しくなってきました。

 

何かを分析するのが好きなオタク気質

・お笑い
・恋愛リアリティショー
・知的財産に関する判例や審決

これらについて、調べたり分析したりということは、本質的な欲求としてやっているかもしれません。けっこう漫才のセリフとか覚えてますね(笑)

一見するとぜんぜん違うジャンルのものにも見えますが、共通点・相違点の分析をすると、新しい点やおもしろい点に気づくのはどのジャンルでも同じなんです。

最初に就職した事務所で

弁理士として最初に就職した事務所では毎日ダメ出しをされました。 仕事でダメ出しされるのは自分の知識が足りないと思い、“とにかく調べまくる”ということをしましたね。

徹底して調べた結果、自らの発言の根拠を示せるようになります。そうすると納得してもらえたり怒られなくて済んだりということがありました。自分の主張を裏付けるために調べるということをやるようになりました。

仕事での喜び

最初は「怒られたくない」「クビになりたくない」というきっかけで“調べまくる”ということをやっていましたが、調べまくっているうちにだんだん調べること自体が楽しくなってきました。

それに加えて、やはりお客様に喜んでいただけること、「岡村さんのおかげです」と言ってもらえることが嬉しいです。学生の頃は人のために働くとか嘘くさいと思っていましたが、働いてみてマインドが変わりました。

弁理士の人にはエリートが多く圧倒されることもあるんですが、自分の性質としては庶民寄りで、それもまた強みでもあるかなと思ってます。

これからの人生

独立開業し晴れて自由の身になったので、これからの人生は、少しずつ新しいことをやっていきたいなと思っています。

劇的に大きな何かをやりたいということではないです。今までのこの業界としては普通じゃなかったけどあったらいいよね、と思ってもらえるようなことをやっていきたいです。

わたしの生い立ち

私は、広島県で平井家の第一子として生まれました。

外科医で職人気質の父と、専業主婦の母という一般的な家庭であったように思います。

幼少期の私はいつもニコニコしており、笑顔の絶えない愛嬌のある子供だったと両親から聞かされています。3歳から5歳は外科医である父の留学の関係でボルドー(フランス)にて幼少期を送りました。異国の文化に触れる貴重な機会であったと感じています。

わたしの進路と挫折

6歳で帰国し、小学校受験をし、国立の小学校・中学校に進みました。今思えばここが人生で一番明るかった時期かもしれません。勉強が嫌いで興味がもてなかった私は高校受験に失敗しました。これを機に両親や、親戚ともうまくいかず、つらい日々を過ごしました。

その後、大学受験を機に上京し、大学の法学部に進学し、法律と出会いました。法律が好きだった私はそのまま弁護士を目指して大学院に進学しました。進学した大学院の教授の影響で企業法務に興味をもち、大学院を修了すると同時にIT系の企業に入社いたしました。

現在は法務部のマネージャーを勤めています。

すべてに恵まれた大学時代

大学ではいい友人たちとの出会いに恵まれ、とてつもなく充実した時間を過ごすことによって、明るかったころの自分を取り戻せたような気さえしました。本当に1秒1秒がかけがえのない時間で、もう一度この頃に戻りたいといつも考えています。学生としてはあまりまじめでなかったですが、好きだった法律の勉強をし、無事大学院に進学しました。大学でのさまざまな出会いを通して、閉ざされた文化圏である島出身の両親の下で、世間とは少し違った考え方のもと育てられてきたんだということと、自分は生きていてもいいんだということを実感しました。

人生で一番辛かった大学院時代

「自分の好きな法律知識を生かした仕事に就きたい」そんな浅い目標を掲げてとんでもないところに入ってしまったなと感じます。私が進学した大学院は法務研究科という、いわゆるロースクールでした。ここは法曹を目指す人たちが通過点として修了する研究科であるため、勉強についていくのがかなり大変でした。先輩や同期に助けられながら修了することができました。ここで法務博士を取得できたことが自分の人生の大きな節目であったと思います。

大学院での一番の収穫は、実際の法廷での法曹の役割をロールプレイ形式で実践する「模擬裁判」という実習科目で、民事裁判を題材に弁護士としての仕事を疑似的に体験したことでした。結果として、「裁判は自分に合わない」と感じました。この出来事と、企業法務を中心に活動されている教授や企業の法務部に就職した先輩らの存在が自分の興味を企業法務へと導きました。

運命的な「リーガルテック」との出会い

自分が就活をしようとしていた時に、ふとリーガルテック分野についてのニュースをみました。内容は“文書改ざんをテクノロジーが暴く“という内容で、そのニュースを見たときに得体の知れない感覚に陥りました。それと同時に、自分が模擬裁判で疑似体験した証拠収集の大変さをテクノロジーで解決できるんじゃないかと感じました。「そういったリーガルテック業務に法務的観点から携わりたい」ということをエージェントに話した際に紹介されたのが、「AOSリーガルテック株式会社(現:リーガルテック株式会社)」でした。しかも、AOSはまさに自分が見ていたニュースで取り上げられていた会社だったのです。

当時私は、就業経験はもちろん、アルバイト経験も面接を受けた経験もなかったので、面接対策に自分の親戚で人事・採用担当経験のある人に片っ端から電話して、「ここの面接に絶対受かりたい。受かるために、レクチャーしてほしい。」と頼み、対策を練りました。無事採用いただくことができました。

新卒で就職 1人総務部から法務部へ。そして未来へ

入社時の配属先は、「総務部」という1人部署でした。業務内容は契約法務・機関法務といった法務業務のみならず、証拠調査・ドキュメントレビュー業務などサービスに関する業務も行いました。

この会社の最大の魅力は、法務業務にとどまらず、フォレンジック調査や社内不正調査、ディスカバリといったさまざまなリーガルテックビジネスに当事者として携われることでした。AOSの法務は、“法務はバックオフィスではなく、事業部と並走でもなく、事業部と一体となって案件を動かしていくべきである“という法務の姿勢を教えてくれました。法務を大切にし、育ててくれる会社に入ったことは自分の成長に大きく影響するターニングポイントだったように感じています。

私は法務の役割というのは、企業が孕むリスクを適切に洗い出し、コントロールできるようにすることだと考えています。事業部と一体となって、実際に目で見ないと適切なリスクコントロールをすることはできません。そういった姿勢で仕事をしていると、その姿勢を評価していただき、新卒で入社して1年8カ月で法務部を設立し、マネージャーに就くことができ、部下も4名もちました。「総務部」から「法務部」へ。両親や友人、同僚、恋人も非常に喜んでくれたのを覚えています。

現在、法務部のチームは、さまざまなリーガルソリューションの設計・開発に携わり、日本のリーガルテック市場を変えるような大きな挑戦をしています。法務という立場にありながらこういった挑戦ができるのはAOSならではだと思います。これまでの法務のイメージをガラッと変えるような、革新的な企業だと感じています。

わたしのライフストーリー これまでをふりかえって

いつも周囲の人間に助けられる、出会いに恵まれた人生だったと思います。

自分の人生振り返ってみると、この両親のもとに生まれてきて幸せだったと感じます。

これから両親や友人、恋人、会社の人たちなど、これまでの人生で自分を助けてくれた人たちに恩返しができるように頑張りたいなと感じています。

いい人生でした。この人生を与えてくれた両親への感謝を記して結びの言葉とさせていただきます。

ではまた次の節目でお会いしましょう。