高田さん(84歳・男性)ライフストーリー
生い立ち ~幼少期~
昭和13年生まれなもので、戦争を経験しています。
7歳の頃でしょうか、空襲警報のサイレンが鳴ると、綿の入った三角帽子をかぶって防空壕に避難していたのですが、それが怖くて食事も喉を通らないときもありました。
昭和20年に戦争が終わり、玉音放送をラジオで聞いたことをはっきり覚えています。
生い立ち ~小学生の頃~
小学校6年生のときのクラスで、実はいまだに同窓会をしています。ここ2年間はコロナで中止でしたが、今年は再開できて2年ぶりに旧友に再会することができ、非常に楽しいひとときを過ごすことが叶いました。
この歳になると亡くなってしまっている旧友もおりますが、うちのクラスは何をするにもまとまりが良く、生きている旧友はみんな集まってくれますね。
年に1回、この同窓会のために北海道に里帰りできるのが、毎年 本当に楽しみなのです。
青春の日々 ~中学時代~
中学に上がって、周りのクラスメイト達はみんな白米のお弁当を持ってくるのですが、その頃うちは麦ごはんで、学校に持っていくのがやや恥ずかしかったので、昼休みにいったんうちに帰ってうちで食べていた記憶がありますね。
あまり勉強は好きではなかったけれど、算数とスポーツが好きで、体育のときなどはリーダーシップを発揮して楽しみました。
学年で私を知らない人はいないくらいにスポーツ全般万能で、特に駆けること(走ること)が得意でしたし、冬はスキーやスケートなどのウィンタースポーツもこなすなど、スポーツは何でもひととおりできました。
若い頃に体を動かす習慣があると、歳をとってもスポーツを継続できるのではないでしょうか。今でも社交ダンスのステップは踏めますし、84歳の今なおゴルフを楽しんでいて、以前は友人ともラウンドを回っていましたが、今は息子や孫とも楽しんでいます。
高校時代 ~ 兄がきっかけで始めたダンス~
函館の造船所で働きながら、4年間、夜間高校に通いました。仕事も遊ぶのも大好きで、高校に入ってから兄に教わって社交ダンスをはじめ、高校1年からホールに通い、先生に指導してもらっていました。
土曜は着替えを持って学校に行き、放課後ダンスホールに出かけるなど楽しい時間を持ちました。兄はダンス講師になるかNTTに勤めるか迷った末、NTTに就職する道を選びましたが、趣味でダンスに出かけていて私はそれについて行くなど、兄と共に長く楽しむことができました。
高校時代 ~憧れていた溶接の世界へ~
溶接に憧れ、勤めていた会社に志願して養成所に通って技術を学び、それ以来ずっと溶接一筋です。あるときから溶接にレントゲン検査が行われるようになったのですが、針の穴のように細かな欠陥もわかってしまうので、ごくごく小さな欠陥が出ないようにするために非常に高度な技術が求められました。そのような厳しい基準に対応していく中で、ほとんど手戻りのない正確な仕事ぶりが評価されるようになり、高度な技術が求められる現場にも呼ばれるようになりました。徐々に、しかし確実に信頼されていくことを非常に嬉しく感じたのを覚えています。
私の節目 ~就職とともに関東へ
就職のため北海道から千葉へ移り住みました。見知らぬ土地へ行くという不安感はあまりなく、関東に出ればすぐ東京に遊びに行けることを楽しみにする気持ちと、早く仕事を覚えたいという意気込みを感じながら、約1000㎞先の新天地へ旅立ちました。
海外でも活躍
勤めていた会社では、時折 海外から研修が来ていましたが、日ごろの仕事ぶりが評価されて私が指導係に選ばれることもありました。言葉が十分に通じるわけではないときもありましたが、私が手本を見せるなど様々に工夫しながら指導にあたり、逆に私が海外に出張に行った際に指導をすることもありましたね。
その成果もあってか、韓国へ出張に行った際に、かつての教え子がリーダーを務めるなど活躍している姿を見ることができたときは、非常に嬉しく思ったのを覚えています。ちなみに韓国は安くておいしいものがたくさんあり、特に焼肉が大好きで、よく食べに行っていましたよ。
仕事で半年ほどインドに行ったこともあります。インドではなかなか現地の食事に慣れず、会社が休みの日は必ず、おいしいものが食べられるホテルに食事に行っていました。仕事のある日は会社から送ってもらったインスタント食品などを利用しながら、特に最初の1か月は食事に苦労した記憶がありますね。
出張で家を空けるときは家族に電話していたのですが、娘が父を恋しがって、母親を困らせたこともたびたびあったようです。息子は小学校1年か2年生の頃に、寂しさのあまりに「パパ、出張ばかりの会社で、そんな会社辞めちゃえ」と泣いたこともありましたが、時は流れて今は息子も社会人になり、今度は息子が忙しく出張の多い日々を送っているようです。
仕事に、趣味に、充実した日々
ともかく仕事が大好き、汗を流した分がさまざまな形で報われるのも楽しみでした。仕事ではとにかく自分の技術を磨くことに熱中していて、若い頃は昼休みも休憩せず練習をしているくらいでしたね。
また仕事だけでなく趣味もおおいに楽しんで過ごしました。高校時代に兄の影響で始めた社交ダンスだけでなく、サルサというキューバの踊りも趣味としていたのですよ。千葉の駅前でイベントをやっていたのを偶然に見て、非常にかっこいいセクシーな踊りでしたし、ラテン系の音楽も大好きだったので、伝手(つて)を頼り、本場のキューバの先生がいるレッスン先で週1回のペースで通っていましたが、リズムに乗って身体を動かすと解放感を感じられますね。
私の節目 ~妻と出会って~
千葉での生活で最も思い出深いのは、やはり妻と出会えたことにつきます。
千葉に移り住んで2年ほど経った頃に、私は会社の上司の自宅にしばしば遊びに行っていたのですが、当時の妻はその家の近くの美容院に勤めていました。偶然に見かけて、とても垢ぬけて日本人離れした姿に、一目惚れでした。彼女に会えるように取り計らってくれないかと上司に頼んだところ無事に会うことができたというのが馴れ初めで、23歳で結婚しました。
妻は私と結婚した後に、自分の店を出しました。さらに、後に我が家が新しくマイホームを建てた際に、自宅の一部を美容院にして、亡くなるまで美容師として仕事を続けていました。
私の家族 ~愛する倅と娘に恵まれて~
男の子が一人と、女の子が一人、2人の愛する子供たちに恵まれました。
兄妹はすごく仲が良く、兄の方は4つ下の妹がかわいいあまり、かまいすぎてしまうこともあり(笑)、また妹も年中 兄に付いて回っていました。
妻はピアノを嗜んでおり、息子もピアノを習いましたし、娘は現在もピアノ講師の職に就いて、小さな子どもたちから人気を得ているようです。
私は結婚して子どもができてから、一人で遊びに行ったことはなく、家族4人で出かけるのが楽しみでした。
妻はいつも働きながら料理もしてくれていますから、たまに上げ膳据え膳で食事をさせてあげたいということで外食に連れて行ったり、他には動物園、バラ園、海水浴・・・常にいろいろなところに一緒に行きました。私は当たり前のことをしているつもりでしたが、夫婦でとても仲が良かったですし、子ども達は大人になった今も「親父にたくさんいろんなところに連れてってもらったなぁ」などと言ってくれています。子どもたちは今も、すごく親孝行してくれていて、非常に感謝しています。
私の家族 ~兄弟のこと~
男兄弟4人の末っ子です。
すぐ上の兄貴はよくいろいろなところに連れて行ってくれて、兄弟のなかで最も親しんでいた兄貴でしたし、私がダンスを始めるきっかけをくれました。
孫と楽しむ今
息子には三人の子があり、私の孫にあたりますが、しばしば一緒に過ごします。
私は食べることが好きなので、孫たちに東京のたくさんの素敵なお店に案内してもらって一緒に食事をしたり、お酒を飲んだり、カラオケをしたり…しょっちゅう会って話して楽しんでいます。またここ数年は息子がしばしばゴルフに誘ってくれるようになり、孫も交えて3世代でゴルフのラウンドをまわることもあります。84歳の今、この歳になり、そういった時間を持てることが私にとってすごく幸せなことだと感じています。
いま伝えたいこと
私たちの子どもの頃は“親の言うことは絶対”、そういう時代でした。
しかし、時代というものは動いています。子どもたちや若い世代の成長とともに、世の中の考え方も変化していっているんですね。私はこの歳になっても、お若い方々と話すときは、その若く新しい考え方を知りたいと思いながら話しており、その変化に適応していきたいと心がけています。
個人的に思うのは、やはり子どもたちとのコミュニケーション、これが一番大事なことだと思います。
世の中で起きている様々な事件の背景をみると、やはり子どもの頃にコミュニケーションが足りなかったという事例が多いのではないかなとも思うのです。子どもを設けたら、親として、特別なことをしなくても、声をかけること、すなわちコミュニケーションが何よりも大切なのではないでしょうか。
自分の過去を振り返ってみると、子どもたちとのコミュニケーションをとれてきたからこそ今の幸せがあると感じています。
我が子ではありますが、心から感謝の気持ちを伝えたい。
いま、人生を振り返り、強くそう感じています。