片山恭一さんライフストーリー

生い立ち~幼少期から小学生時代~

僕は昭和34年に愛媛県宇和島市に生まれ、公務員の両親のもとに育ち、子どもの頃はお調子者でおしゃべりが好きな性格でした。

母が市立図書館に勤めていたこともあり、小さかった頃は、子ども達の遊び場になっていた図書館の園庭に集まって、近所の子ども達と一緒に遊んでいた記憶があります。

僕が子どもの頃は地域のコミュニティや子ども達の縦社会のようなものがまだ残っていて、近所のお兄ちゃん達が年少の子ども達を集めて、ビー玉だとかめんこだとか、冬だとコマ遊びとか、そういう遊びをやっていました。高学年になるとそういう遊びから卒業して、僕の場合はプラモデルを作ったりしていて、もの作るのが好きな子どもだったと思います。

子煩悩な父に連れられて、海が近かったことから魚釣りに行ったり、当時 石ブームだったこともあり石を採取しに山登りに行ったりなど、父によく遊んでもらっていた記憶があります。父は非常に優しい人柄で、あまり叱られた記憶などもないですね。

中学時代~ロックとの出会い~

僕にとって中学時代の最大の出会いは、なんといっても“音楽との出会い”です。

物心ついたころから自宅には蓄音器があり、小学校の音楽の時間にベートーベンやチャイコフスキーに魅力を感じてレコードを買ってもらったりなど、音楽好きの素養はもととありましたが、中学に入ってロックと出会ったことが非常に大きかったですね。

当時、フランシス・レイなどの映画音楽が一般的によく聴かれており、そういったものが洋楽に入る入り口だったという人々が多いようでした。僕自身も、洋楽的なリズムとかメロディーとかそういったものを好んでいましたね。

僕が、中一の時に最初に良いなと思ったのはベンチャーズで、ほどなくしてビートルズに出会いました。ビートルズが来日した際、僕はまだ小学生だったのであまり記憶には残っていないのですが、僕が中学に上がった頃がちょうどビートルズが解散して各メンバーがそれぞれソロ活動を始めていたようなタイミングでした。ビートルズの新しい曲から古い曲で遡って聴き始め、そこからローリング・ストーンズやボブ・ディランなどに幅を広げていったように思います。

“ロック少年”だった青春

中学の頃からギターを弾いており、中学に上がってはじめてバンドを組み、ますますロックにのめりこみました。ギター2本にベースとドラムスで構成された、いわゆる4ピースバンドを組み、バンドメンバーと情報交換などをし始めまして、仲間達と協力し合いながらレコードを集め始めたのです。子どものころ、お小遣いが2000円で、レコード一枚がちょうど2000円前後だったので、月に1枚のレコードを買うことが当時の最大の生きがいといっても過言ではありませんでした。今月は何を買うか、来月は何を買うか、「友だちが持っているレコードは貸し借りができるので、別の曲を買おう」とか、そういう相談をしていました。今の若者達のようにスマホから多数の情報を摂取するという時代でもなかったので、そういう友人たちとの情報交換とかやりとりがより一層 濃いものになったと思いますね。

当時のバンドメンバーの一人は未だに一番親しい友人で、今も交流がありますが、彼は現在音楽評論家の職についています。お互いに結婚するなどして一時的に疎遠になったときもあるのですが、これまでずっと共に音楽を追いかけてきた仲間であり、同じような音楽を愛好してきて、同じようなことを考えたり感じたりしながら生きてきたのだなと実感しています。今でも音楽について語り合うと一瞬で青春時代に戻ることができ、すぐに距離感がゼロになるのです。

いま振り返る青春時代、昔の仲間、そして音楽

僕の場合は音楽というものが、自分の人生の節目節目を呼び起こしてくれます。

自分のFacebookで「生涯の5枚」という楽曲を紹介しているのですよ。

ときどき入れ替わるんですけれども、とはいってもこの歳になるとね、青春時代に好きだったバンドの音楽はずっと追いかけています。

クラシック音楽でいうモーツアルトみたいなね、人生のどの時点にあっても、入口になるようなものですね。

ロックを聴き始めたときに感じた新鮮さや胸のときめきといった感情は、初恋や、誰かを好きになったときの感情に共通しているように思いますね。世界が広がるような感覚といいましょうか。現在に至るまで、小説執筆にあたっての一番根元にあるのはそういう情動を掘り進んだり表現したり、小学校の頃から現在に至るまでに出会った人であったり友人であったり音楽であったり、創作の出発点は、その頃から始まっているように思いますね。

夢中になってロックを聞いていたこと、これが中学高校を通して一番大きな体験だったといえます。

青春のころ~受験生時代~

ロックは好きでしたけれども、音楽で身を立てようとまでは考えてはいませんでした。公務員家庭に生まれて両親も堅実な人物だったこともあり、冒険のような人生設計ではなく、普通に結婚して家庭を作って、その中でできるだけ自分のやりたいことをやっていこうというシナリオを描いていたのですよ。なので中学高校の頃は割とよく勉強をしていて、成績も素行もよく、特に数学など理系分野が得意で、土木や建築に興味があったため第一志望は工学部でした。そして、僕の場合、進路を考えるにあたっても音楽の話が関わってきます。

僕が好きだったザ・バンドは、大地に密着した生活をしながらそういう匂いのする音楽を作っていました。またボブ・ディランも60年代にバイク事故を起こし隠遁生活のような暮らしぶりだった時期があり、昼間は農業や小屋の修理などをしながら夜は音楽に取り組んで作品を生み出すといった生活をしていて、彼らの生き方に非常に憧れていました。

ザ・バンドのアルバムのジャケットに、農場の小屋のような場所でメンバーとその家族の集合写真のようなものがあるのですが、それを見たときにパッと、「これだ!」と感じ、自然的な素朴な生き方の一つの象徴のように思ったものです。

進路や受験を考える時期にもそういった憧れを踏まえて検討した結果、工学部より自然を相手に生きるような仕事に就きたいと思い、農学部という選択肢が浮かんできました。幸い理系だったので受験科目はさほど変えずに工学部から農学部に変更することができました。 その方向で自分の学力と照らし合わせて、浪人せずに安全に合格できるところがよいというのもあり、九州大学農学部という選択になったのです。九大に入った当初は農業をしようと思っていたのですよ。

大学生時代

大学に入り、阿蘇など自然の残っているところで植物採集に取り組むなどしていると、自分はサラリーマンには向いてないな、アカデミズムの世界で生きたいなと思いはじめ、研究者になろうかなと考えました。最初は農学関係に進み、植物学や生物学などで研究者になろうと思っていたのですが、大学の一般教養を通して、国文学などの人文科学系や、経済学などの社会科学系の分野に接するうちに、そちらに興味が湧き始めました。農学部の中には農業経済学という専攻があり、そちらに進めば経済学の本を読むことができるなと思ったので、それを専攻し、まずはマルクス経済学を読み始めました。

大学時代に学んだマルクス

マルクスは面白い人で、もともとは哲学者だったのです。マルクスから始まり、ヘーゲルなどの現象学の研究者、ヘーゲル周辺の現象学の研究者であるメルロ=ポンティやフッサール、それらから影響を受けたハイデガー、ハイデガーに影響を受けたニーチェ・・・といった具合に、どんどん広がっていきました。

大学の研究者を志していたために大学院に進学したのですが、その頃は、フランス現代思想などがどんどん輸入されていた時期でした。戦後に登場したミッシェル・フーコーやジル・ドゥルーズ、ロラン・バルトなどが翻訳され盛んに紹介されるようになり、その頃の僕もそういう本を読むようになるわけです。すると、指導教授の行っている研究、例えば18世紀や19世紀のイギリスの農業形態を今更研究してどうなるのかと、つまらないものに思えてきて、自分の興味対象からはずれてしまったのです。むしろフーコーが問題提起するように「人間とはどういうものなのか」「人間はどう考えるか」という、僕がいまだに考えている一番大きな課題に、大学院生の22歳の頃に出会ってしまい、農業研究論文が書けなくなりました。当時の指導教授からは「(農業経済科に在籍しながら)フランス現代思想なんて、何をやっているんだ。面倒をみきれない」といったことを言われるわけです。当時僕も若かったので「面倒みてもらうつもりもないよ、僕は勝手にやるから」といったことを言っていましたが、それでも大学院に籍を置かせてもらえていたわけなので良い先生方でした。研究室や図書館などの施設や、コピー機などの設備を使わせてもらいながら、自分なりの研究活動を進めていたものの、アカデミズムの世界に自分の居場所がないことがはっきりしたともいえます。しかしどうしても書くこと読むことが好きだったため、何か書くことで仕事をしたいと考えました。そこで、当時社会的に認知され始めていた「批評」、それもいわゆる文芸評論ではなくもう少し広い意味での批評を行うことを考えました。それともう一つ、小説を書いてみようと。批評か小説家のどちらかで世に出たいと考えたのです。

 周囲に文学をやっている仲間もおらず、それまで誰にも読んでみてもらったことがなかったものの、そういった経緯で小説を応募してみようと思ったわけです。

家族に支えられながらの小説の執筆

今の妻と結婚し、子どもが生まれた時期に小説を書き始めました。自分の作品のレベルを知りたくなり、文芸春秋が出している「文学界」という雑誌の新人賞に原稿を送ってみたのです。最初に送った原稿が最終選考まで残り、その旨を知らせるハガキを受け取ったときが、小説を書いていて一番嬉しかったかもしれませんね。本選では入賞しませんでしたが、これはもう少し頑張れば、なんとかなるかもしれないと思い、せっせと書いて送り続けました。

文学界の新人賞を受賞

1年後か2年後、26、7歳の頃に文学界の新人賞をもらうことができました。小説を書き始めて4~5年は経っていたと思いますが、東京の授賞式に招待され、編集部の方々と知り合いました。その際に「受賞第一作を書いてください」と言われ、「よし、これはなんとかなるかもしれない」と思いながら執筆に取り組むも、お目に適う作品がなかなか書けなかった時期が続きました。新人賞の厳しさを目の当たりにすることになったといえましょう。実は新人賞の賞味期限は半年なのです。文学界の新人賞は年2回実施、ちなみに芥川賞や直木賞と一緒ですね。ですので半年後にはもう新しい受賞者が登場するわけで、編集者たちはそちらのケアをするようになる。したがって受賞後半年の間に受賞第一作が書けなければ、受賞で得たせっかくのつながりがほぼ切れてしまう、そういう冷酷な現実を当時は全く知らず、相変わらず呑気に小説を書いていたのですが、いくら書いても掲載されない、どうしたものかと思っていました。

僕の場合、大学院に籍だけ置いているけれども、他の院生達は懸命に博士論文を執筆していました。博士論文を書いて受理されれば勤め先としてどこかの大学を世話してもらえるわけです。しかし僕はもう完全にそのルートから外れていたから、自分で何とかするしかないわけで、それで小説か批評家かと思っていたのですが、小説は新人賞を受賞してそれっきりだし、筆を折って普通に働こうか、どうしようかと思い悩んだ期間が10年近くありました。

公務員試験の受験資格が30歳くらいまでなので受けようかとも思いましたが、試験科目を全く勉強していませんし、やはり小説を書きたい、もう自分が書きたいものがあるから、勉強する気も起きないのです。

妻に収入があり生活に苦労するということはなかったのですが、妻に働かせて自分が無収入に近いとなると精神的につらくなってくるので、30歳過ぎていよいよ何かで稼ぎたいと思い、本当に就職しようと思いましたよ。しかし大学院まで行って30過ぎて何の技能もないとなると就職先もないのです。今でも覚えてるのですが、プールの監視員の採用基準を満たしていたので、その採用に関して話を聞きに行ったこともありました(笑)。しかしやはりやりたくないことはやりたくない、できれば何か物を書いて少しでも収入があるとよいなと。そんなこんなで自分なりにつらい時期ではありましたが、妻はあまりそういうことをいろいろ言う人ではなく、「好きなことしてるならいいんじゃない、私が働いているし」とか言うタイプで、子どもたちも「お父さんはイササカ先生(サザエさん)をやっている」と表現して、温かく見守ってくれていました。とはいえ、さすがにこれはどうにかしないといかんなと思いながらも、売れない小説を書いていました。自分の両親も妻の両親も、どうにかしろというようなことを言う人ではなかったですし、友人も学習塾の講師の仕事に誘ってくれるなどして、環境に恵まれて小説を書き続けていたのですね。今でも付き合いのある恩師も気にかけてくれていたし、かつて僕が反目した助教授もずっと心配してくれていたのですが、当時はそんなこととは露知らず。最近になって、いろんな人に助けられてやってこられたのだなと謙虚に思えるようになりました。当時は追い詰められていたのでそういう余裕がなかったのですが。

最初の出版、「君の知らないところで世界は動く」

書いても書いても売れない期間が長かったのですが、しかし僕には、気にかけてくれる人たちが何人もいてくれたことに救われました。

例えば、福岡の同人誌に書いてみませんかというお声がけをいただいたことがあり、その同人誌の人たちに本当にお世話になっています。

また九大の文学部に、編集者を志していた佐々木さんという方がいて、僕は知らなかったのですが文学界の受賞作を読んで気にかけてくれていたのらしいのです。佐々木さんは福武書店の「海燕」という雑誌の編集者になり、「何とか片山さんの小説を掲載したいと思います」と言ってくれたので、福武書店にどんどん原稿を送りました。そのうちに海燕は編集方針が変わって純文学はあまり掲載しなくなり、佐々木さんも「これは自分のやりたいことじゃない」ということで新潮社に移られたのです。新潮社に移った佐々木さんが、「今は別の仕事をしているから直接自分は扱えないが、他の人に紹介するから原稿を送ってください」と言ってくれたのですね。そのようにして送った原稿のうちの一つを出版部に持ち込んでくれて、それが新潮社から最初に出た「君の知らないところで世界は動く」という本になり、なんとか最初の単行本が出るわけです。このときは佐久間さんという編集者のお世話になったのですが、ほとんど売れませんでした。出版の世界では増刷がかからなければとりあえず失敗とされます。一冊目の本が増刷にならなかったことで2冊目を新潮社から出すことが非常に難しくなりました。

2冊目の出版、「ジョン・レノンを信じるな」

最初の出版では増刷がかからなくて新潮社とはそれきりでしたが、その本を読んだ編集者の何名かの方々から「次はうちで書きませんか」と声をかけてもらいました。その時は角川書店の根本さんという人が一生懸命に動いてくれて、僕にとって2冊目の単行本となる「ジョン・レノンを信じるな」を角川書店から出すことができました。だたこの本も増刷がかからず、角川書店からも次は厳しいぞということになりました。

3冊目の出版、「世界の中心で愛をさけぶ」

その次に、3人目に現れたのが小学館の菅原さんで、彼が「何とかしたいから原稿を送ってくれ」というので送ったのが「世界の中心で愛をさけぶ」のプロトタイプでした。

菅原さんは、「面白いんだけど今ちょっとこういう高校生の恋愛小説を出す雰囲気にないんだよな」という話をされていました。当時は、例えば高村薫さんの「レディージョーカー」など、社会派小説が時代のトレンドでした。企業の内幕や社会問題が書かれているなど、社会性のある本が人気なご時世で、それは他社の編集者からもなんとなく聞いてました。そのために2~3年近く保留の状態が続き、1998年には仕上がっていた原稿であるにも関わらず、世に出るのが2001年4月になってしまったのです。とはいえ、その間もずっと菅原さんとはやり取りはしながら少しずつ書き直したりはしていました。そうしているうちに2000年の暮れ頃に菅原さんから「状況が整ってきたので出版できそう」という連絡があり、年が明けて2001年3月末くらいに無事に刊行にこぎつけました。僕の人生の不遇の時代には、家族や友人や周囲のいろいろな方々に助けられてなんとか書きつないできたものが、ようやく本になり、本になってからも様々な編集者の方々がリレーバトンのようにつないでくださって、なんとか3冊目にベストセラーになったのです。そういう方々がバトンをつないでくれなければ、あるいは周囲の支えがなければ、どこかで挫折していたと思います。自分の力でできることは非常に限られていて、人とのつながりに助けられている部分が極めて大きいのだと、今振り返ってそのように感じます。

今の子ども達について思うこと

63歳になった今だからこそ感じることは、子どもの頃や大学の頃の友人とは、たとえ数十年ぶりであったとしても、ひとたび話せばその頃の気持ちにすぐ戻れるのだなぁということ。人間の関係とは不思議なものだと思います。

20歳くらいまでの若い頃に出会ったものは、その人の人生を既定するといいましょうか、その人の人格に影響するように思います。

そうであるからこそ、若い時代に出会う人・物・事は非常に大切なものです。年若い世代や子ども達と接する中では、老婆心ながら、その大切さを伝えるようにしています。

子ども達と接して~学習塾や剣道での指導を通して~

友人の学習塾にて週1で国語を教えているほか、剣道道場において子ども達に対して剣道指導もしており、またついこの間まで自宅近くの大学でも講義を受け持っていたことなどから、子ども達・若者達との交流の機会は、ずっと途切れずにあるのです。

彼らはいわばスマホネイティブ世代であり、生まれたときからスマホがごく身近にあります。まさにスマホ中心の生活なっていて、さまざまな物事と出会う機会が失われているのではないかとも感じられます。もちろん、僕らの世代が出会ってこなかったような、スマホを通しての出会いというものはあるのかもしれないとは思うものの、とはいえ彼らは自分が本当に好きなものに出会うことは、むしろ難しくなっているのではないでしょうか。 

 僕にとっては、それは音楽で、人によってはそれが文学であったり映画であったり、それぞれが愛好したものになるのだと思います。

音楽によってどれほど人生が豊かになってきたかということ。また恋愛をする際も常に音楽が傍らにあり、好きな人と一緒に聞いた音楽であるとか、「あのとき、ああいう話をしながら、この曲を聴いたな」といった具合に、人生のひとつひとつの情景を浮かび上がらせてくれるのです。

本当に好きなものと出会うことが、我々の時代より難しい今の子ども達世代が、将来どのようになっていくのか、半分心配で、半分興味があるところでもありますね。

人生の節目

父を亡くしたことが自分にとって、これからを生きていく上で極めて大きな出来事でした。父を亡くした当時の自分も、祖父母はすでに亡くしていましたが、それよりもっと親しい身内を亡くした経験は、父の死が初めてといえます。親が自分より先に亡くなるというのは当たり前のことでもあるので、その時はあまり深刻には考えなかったですが、10年ほど経ってみて今振り返ると、後ろ盾を失ったような心細い感覚があったように思います。生前の父とは一緒に暮らしていたわけではないけれども、やはり父が生きていた時はどこかで意識していたのでしょうね。父が亡くなってから数年間はどうもお酒の飲み方が荒っぽくなったり、父が生きていたころはしなかったようなひどい言い方をしたり。年齢的なものもあるのかもしれませんが、何か空虚な感じがずっとありました。

親を亡くす体験は人間にとってどうしても経なければならない普遍的・一般的な体験でもあります。自分の死や大切な人の死をどう考えていけばいいのか、死をどう乗り越える、あるいは死をどういうモノにしていくか・・・・・、世界の中心にあるものは死であり、人間にとって最も大きな問題です。

僕の場合、小説がベストセラーになるとか300万部売れるなど、他の人があまり経験しないようなことを経験しているけれども、それよりも誰もが経験する可能性が高い自分の親を亡くすことの方が重要な出来事であると僕は思うし、汲み取ることが多い、深い体験、大きな体験であろうと思います。「世界の中心で愛をさけぶ」の作中でも大切な人の死というテーマを扱っているんですけれども、僕にとって死は大きな問題として常に自分の中にありました。まだうまく言語化できませんが、人間にとって「親の死」は大きな体験であろうと思いますし、せっかく文学をやっているのだから、そのことに意味を持たせ、何か言葉にしてみたいと。直接 親のことを書くわけじゃないですが、恋愛を描くにしてもその中に親を亡くした体験が入ってないと、これまで生きてきた、あるいは年をとってきた意味がないような気がします。だから何らかの形で反映していくんじゃないかと思うのです。

人生(ライフストーリー)を振り返って

人生というのは、つらいこと、悲しいこと、様々な不条理があるのですが、やはり誰にとっても、生まれてきてよかったと、この世界で数年あるいは数十年過ごすということはやはり良いことなのだと肯定できる考え方を作りたいですよね。

不条理は不条理なんだけれども、どんなことがあったにせよ、それらをひっくるめて、この地球上で人間が生きていることを肯定する、すべてを包み込むような、生まれてきてよかったなという考え方を作れたらいいなと思いますね。