三帰天海さん(男性)

私の生まれ

私の生まれは大阪府泉佐野市鶴原と言うところで生まれました。父は三帰省吾63歳で44年前に永眠。母の名は静74歳で20年前に永眠。母学習私が5才の時長女と妹を連れて家出。後2年後父と母は離婚。父は隣りのお寺(光泉寺)の次男坊として生まれる。父は僧籍は持っています。小さい頃から頭の良い天才児だったと言う。当時の和歌山大学卒業後、日発(日本発電所)と言う会社の労働組合の書記長を務めた。しかし1949年にゼネストをしようとしてマッカーサーによりゼネストはストップされ父は解雇さなれた。その後日本共産党員として地下に潜り1952年に吹田事件の首謀者となり3000人の集会デモを起こし拘置所にも入る。しかし3か月程で出てきたと言われる。私は1950年生まれだけど、その時も父は拘置所に入っていたらしい。私の名前は父が拘置所に入っている時につけられたと聞いています。裁判は1980年迄続くが全面勝利で30年ぶりに無罪判決を受ける。私は30年間犯罪者の息子として育つ。

 

私の生い立ち(私の子ども時代)

私三帰天海は5才まで両親の下で育つが5才の時長女と妹を連れて家出。10才の時父の妹の家(八木家)に養子(世話になる)18歳まで。

 

私の学生時代

10才の時八木家に世話になると同時に柔道か剣道をしろ。他のスポーツはヤンキーのスポーツなのでやってはいけない。(クラブに入ってと言う意味だと思います。)12歳小学校卒業まで町道場にかよい、中学校からは学校柔道部に入る。高校になれば、天理大学柔道部の卒業生で高校の全国大会であの全日本1位になった坂口征二と決勝戦団体のキャプテンとしてやりあい引き分けた。と言う橋本清と言う先生でした。その時に大阪府個人戦無差別で600人中私は68kgでしたがベスト8に入った記録があります。当時は黒帯で2段でした。

 

私の青春時代

18歳から20歳まで東急車両に就職して電車や海上コンテナの電気溶接工員でした。20歳で柔道3段でした。20歳から大阪府立農芸高校に教員の実習助手として食品加工科に就職。30歳で農業教諭となりました。教育の限界を感じて34歳で退職アメリカに柔道着1着で渡る。

 

私の略歴

1.)大阪府泉佐野市鶴原小学校1年生から4年生まで

大阪府堺市立津久野小学校4年生から6年生卒業

2.)大阪府堺市上の芝中学校卒業

堺市の柔道大会で団体優勝する。

3.)大阪府立堺工業高校卒業

堺市高校柔道大会団体優勝

大阪府工業高校大会団体優勝

大阪府無差別個人ベスト8に入賞

4.)18歳から20歳

東急車両入社溶接工として。

5.)20歳の4月から34歳の10月まで大阪府立農芸高等学校の農農業教科教諭14年間勤める。

6.)2年間アメリカのカルフォルニアにすみ武者修行。

先生探し、2年後1987.10月にインドの女性のグルーマイと言う先生との出会いと見つかる。

アメリカに入って2週間後に福田敬子10段に出会う。そこの女子道場で福田敬子先生の補助として乱取りのお仕事をもらう。

座禅で座る。皿洗いのアルバイト。柔道教師。で生活。

7.)LiSAと共に1987年から1988年東京専修学院卒業と同時に東本願寺の僧籍と教師免許取得三帰釈迦Diego8月29日出産。

8.)1989年4月から1994年までアメリカインドのSYDA瞑想修行道場に就職。料理と柔道の仕事を寺の中でする。

9.)1984年6月に静岡県の静波の光正寺と言うお寺に入寺

10.)1994年10月に光正寺を出て、妻LiSAが東京に出たいと言うので東京に移転。アパートに入る。

11.)LiSAアメリカに帰り離婚。三帰天海1人日本に残る。

 

私の節目

34歳で日本を柔道着1着でアメリカのカルフォルニアに渡る。36歳でインド人のグルーマイにニューヨークの山の中のインドのお寺で会う。

 

私の家族

現在柳沼ちひろ45歳と結婚してもう13年目になる。

 

私の人生の恩人

アメリカで出会ったAlex Feng .グルーマイ、福田敬子10段

 

私の趣味・好きなこと

柔道

仏教の勉強と書く事。

 

私の座右の銘

死ぬ時は溝の中でも前向きに死ぬ事。

 

人生を振り返って、いま伝えたいこと

教育の行き詰まりで日本を出たが今はその時の行き詰まりが無いので、昔に戻ってお返しをしたいが時間が経ち過ぎてもとに戻れないので、そのお返しを縁のある人にしたいと思っています。